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花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第9話 - ラジオから流れ出る音楽で涙ぼろぼろ... 

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第9話。ラジオから流れ出る音楽で涙ぼろぼろ... 音楽が余興や流行り物の消耗品ではなく、生き方だと教えてくれたのが岡林信康だった。

 都内、白金台のプラチナ通りあたりから始まる外苑西通りを北上して、霞町(西麻布)交差点を超えて道が二股に分かれるあたり、広大な敷地を抱える青山霊園の一角に、解放運動無名戦士墓がある。上京して40年弱、おしゃれなエリアと知られるここにこんなものが存在しているのを知る由もなかったのだが、親父が他界してしばらく後、彼の名前がここに加えられたことを告げる封書が実家に届いていた。

 これがどれほどの意味を持つのかよくはわからないし、誰がそれを決めているのかも全く知らない。が、この知らせを受けて、解放運動無名戦士墓を調べてみると、日本の社会運動や労働運動に貢献した無名戦士を合葬する墓とある。とはいっても、徳田球一や瀬長亀次郎など、少しでもそのあたりの歴史を知っているなら目にしたことはあるだろう、そうそうたる著名人の名前が刻まれていることに驚かされる。

 でも、親父が多くの人間に知られた存在であるわけはないし、自分が知っている限り、彼は文字通りの無名市民でしかなかった。子供の頃に聞かされたことといえば、戦後間もない岡山で、タクシー労働者による初の労働組合を結成したひとりが彼であったことや、会社に雇われたヤクザと対峙しながら、ストライキを決行したこと。結果として彼は解雇され、顔写真が新聞に掲載されたおかげで地元での再就職がままならず、職を求めて逃げるように大阪に向かったことぐらいかもしれない。加えて、その頃から、彼が日本共産党の党員として半世紀を超える活動をしていたことは知っている。

 そんな彼の生き様から大きな影響を受けていた。子供の頃から世間一般的に言う『左翼的』思考(&指向)性を受け継いでいたんだろう。といっても、右翼や左翼なんて言葉すら耳にしたこともない頃のこと。漠然と抱えていたのは、弱いものいじめをする連中が嫌いだというシンプルな感情にすぎない。そんな気持ちで『小さな労働者が大金持ちの資本家と闘う』という漫画のような絵を描いたことがある。胃潰瘍を患って入院した彼をおふくろと一緒に見舞いに行ったとき、それを持っていったら、ひどく喜んでくれたものだ。

 中学生の頃に、映画やラジオを通じて接することになったニューロックと呼ばれる動きに触発されたのは、そんな背景もあったに違いない。古い価値観に反旗を翻したのが戦後まもなく生まれた世代が生み出した文化。わずかに理解し始めていた英語の"revolution"や"no war"という言葉の響きを敏感に感じ取っていた。が、所詮は外国の話。ラディカルな姿勢を感じさせた初期のシカゴというバンドや、映画「ウッドストック」や「イージーライダー」に「いちご白書」にいたく感化されてはいたとは言え、どこかでそれは海の「向こう」のことだった。

 ところが、高校への受験勉強でとっぷりとはまることになる深夜放送で、それこそ頭をぶん殴られたような衝撃を受ける「歌」と出会うことになる。わかったような、わからないような外国語ではなく、一言一言が明瞭に理解できるのみならず、心を突き刺す言葉を持つ日本語の歌。その入り口が岡林信康だった。それまでふつうに耳に入っていた、いわゆる歌謡曲にニューロックと呼ばれるものからほとばしるように響いていた社会性や過激さに反逆性など微塵も感じることがなかった。現実の世界に横たわる問題とは無縁のような、愛や恋で溢れた歌ばかり。もちろん、それが悪いとは思わない。ただ、通り過ぎるだけで、心を揺さぶることはなかったのだ。が、彼の歌から聞こえてきたのはそれとは全く異質の世界だった。

 

岡林信康「手紙」のスタジオ録音はシングル盤でしか発売されてはいなかった。当初、1970年のフォーク・ジャンボリー録音のライヴ・ヴァージョン「それで自由になったのかい」( URS-0017)のB面として発表され、その1年後には「手紙」(URT-0053)をA面としてジャケットを差し替えたシングルが発表されている。

「私の好きなみつるさんは、おじいさんからお店をもらい... 」

 と、始まる「手紙」が最初だった。文字通り、手紙のように書かれた歌詞が、実は、中島一子さんという女性の遺書から生まれたことは、後に知ることになる。が、そんなこと知りもしなかったのに、この歌を聴いてぼろぼろと涙を流していた。ベースとなっているのは、結婚するはずだった二人が「部落差別」を理由に、結婚を反対され、挙げ句の果てに彼女は自殺を選んだという、実際に起きた悲劇。その時点で、発端となる「未解放部落」、今では「被差別部落」と呼ばれるものがなにかも知らなかったのだが、歌を通じてその意味のみならず社会の構造や政治を知るようになる。

 といっても。まるでタブーのように覆い隠され、「触れない方がいい」とされるこの問題を、知る人は多くはないだろう。単純に言えば、江戸時代の階級制度の名残りで、インドのカーストのようなものだと考えればいい。ずっと昔に「賤民」とされた人達がいた地域の出身者が選別、差別され、結婚や就職に支障を来すという事態が、頻繁に起きていたのがその当時。実を言えば、21世紀の今でもそれが続いているというから驚かされる。一方で、単純に『集落』の意味にすぎない『部落』という言葉さえも、『差別語』としてメディアで抹殺され、使われなくなっているなんてこともある。その背景に何があるのか?

岡林信康のデビュー・シングルとなる「山谷ブルース」。メジャーのビクターから発売されたシングルのA面で、B面には「友よ」が収録されている。といっても、本来は「くそくらえ節」のB面として考えられていが、レコード倫理規定委員会の圧力で、タイトルを変えたにもかかわらず発売が中止されたといういきさつもあるとか。

 そんな社会の現実に向かい合わせてくれたこの歌をきっかけに岡林信康を始めとするフォークの世界にとっぷりと浸かり始める。同じような流れで生まれた「チューリップのアップリケ」に最底辺の労働者の姿を描いた「山谷ブルース」や「流れ者」といった、政治的な抗議や抵抗を内包した、いわばプロテスト・ソングに心を動かされ、そこから高石友也や五つの赤い風船といったバンドやアーティストの歌に惹かれていくようになっていた。

 不思議なもので、それ以降、圧倒的に影響を受ける岡林信康のライヴは、その当時、全く体験していない。まだ頻繁にライヴを見に行くことができる年齢ではなかったからかもしれないし、同時に、彼の活動の変遷が絡んでいるのかもしれない。日雇い労働者で溢れる山谷に飛び込んで、彼らと同じように働きながら生み出したのが、「くそくらえ節」や「がいこつの歌」に前述の名曲の数々。それが脚光を浴びて、レコード・デビューとなり、アンダーグランドではあったもののヒットを記録していくのだ。

 ただ、その結果、「フォークの神様」に祭り上げられ、今度は政治的に利用され始める。おそらく、アメリカの歴史に残るプロテスト・ソング、ピート・シーガーによって広められ、当時の公民権運動やヴェトナム反戦のみならず、今でも数々のデモや集会で歌われる「勝利を我らに(We Shall Overcome)」に匹敵する彼の名曲が「友よ」。彼自身にとっても大ヒットだったにもかかわらず、後に「まともに」歌わなくなったのは、そんな背景があったのだろうと察する。同時に、彼の苦悶も重なっていた。これが本当かどうか、「歌で闘いながら、金を儲けている...」と彼が疑問に感じているといったことを当時の雑誌かなにかで読んだ記憶がある。そこから彼が、文字通り「逃げ出して」いったこともあった。

 一方で、同じ頃、やはり深夜放送を通じて知ったバンド、五つの赤い風船のライヴは幾度か体験していた。リーダーの西岡たかしがそういった番組のパーソナリティをやっていたのがきっかけだろう。彼の語りがおもしろおかしくて、まるで吉本か松竹新喜劇でも体験しているような感覚もあった。そのあたりが、当時の、いわゆるフォーク系の典型的ライヴで、ひょっとすると、それこそが彼らの人気を支えているのではないかと思えるほど。それでも「血まみれの鳩」や「まるで洪水のように」といった、明らかに反戦を訴える名曲は、メイン・ストリームのポップスや歌謡曲とは一線を画した魅力に溢れていた。加えて、ジャズっぽいエッジを持ったアレンジやコーラスワークに日本の民謡をも飲み込んだライヴが新しい音楽の扉を開いてくれたようにも思う。

まずは会員制の組織として始まった日本初のインディ・レーベル、URCで最初に「配布」されたのが高田渡と五つの赤い風船のスプリット・アルバム(URL-1001)だった。1969年にはすでに双方の代表曲がここに集められている。

 それでも岡林信康の魅力には遠く及ばなかった。まだ、この頃、ステレオもなければ、レコードも買ったことはなかったし、彼のライヴも体験したことはなかったというのに、脳裏に刻まれていったのが彼の歌の数々。後追いで、日本で初のインディ・レーベルとなるURC(アンダーグランド・レコード・クラブ)から発表されたデビュー・アルバム『わたしを断罪せよ』からセカンドの『見るまえに跳べ』、そして、3枚目となる『俺らいちぬけた』を買い求めるんだが、ほとんどの歌を知っていた。それを繰り返し聞きながら、自分のなかでなにかが共鳴しているのを確認していくことになる。

岡林信康『私を断罪せよ』
『わたしを断罪せよ 岡林信康フォーク・アルバム第一集』として、オリジナル(URL-1007)が発表されたのは1969年。これは後に東宝レコードから再発されたものでUX-8001。ジャケットを広げると、岡林信康とボブ・ディランのイメージが重ねられ、フォークからロックへと移行していった流れがすでに見て取れる。ここに収録されている「それで自由になったのかい」や「今日をこえて」ははっぴいえんどをバックによりロック的なアレンジで再録音されている。

 あの三部作が、見事に彼自身のみならず、時代の空気や、おそらくは、自分自身の心境の変化をも言い当てていたように思えていた。音楽や文化が社会を変えるなんらかの要素たり得ると感じさせたのが『わたしを断罪せよ』の頃。そのエネルギーが昇華され、ロックへと向かったのが、デビューしたばかりのはっぴいえんどと録音され、当時の学生運動に大きな影響を与えた作家、大江健三郎の小説と同じタイトルが付けられた『見るまえに跳べ』。よく言われるように、フォークから脱皮し、当初はアル・クーパーやマイク・ブルームフィールドと、そして、後にザ・バンドを引き連れて活動したボブ・ディランと比較されたのも当然だろう。その頃の、岡林信康は圧倒的な人気を獲得したロッカーへと変貌し、神格化さえされていた。

 どの歌も胸を打つ。巻頭を飾る「愛する人へ」から「自由への長い旅」...なかでもA面最後に収録されている「私たちの望むものは」が、当時の若者たちのアンセムとなっていった。外に向けられていた怒りの矛先が、実は、自分の胸に突き刺さったような感覚を持つ歌かもしれない。「私たちの望むものは生きる苦しみではなく、生きる喜びなのだ」というフレーズが逆転し、「生きる喜びではなく、生きる苦しみ」となり、「あなたを殺すことではなく、あなたと生きることなのだ」といういうフレーズも同じように「あなたと生きることではなく、あなたを殺すことなのだ」と変わっていく、その裏になにかを感じ取っていた。

1970年全日本フォークジャンボリーでのライヴで「私たちの望むものは」。バックを固めるのははっぴいえんどで、若い日の細野晴臣、松本隆、大瀧詠一、鈴木茂が目に入る貴重な映像。これはドキュメンタリー「だからここに来た!-全日本フォーク・ジャンボリーの記録-」に収録されている。

 アルバムに収録されてはいない名曲も多い。全日本フォークジャンボリーというフェスティヴァルを記録したドキュメンタリーのテーマとして使われた「だからここに来た」はシングルとして発表され、B面の「コペルニクス的転回のすすめ」と共にはっぴいえんどをバックに録音されている。また、同じように再録音されシングルでしか聞くことのできなかった「それで自由になったのかい」や「今日をこえて」は以前とは違ったエネルギーを放っていた。

「だからここに来た」「家はでたけれど」
はっぴいえんどと録音したシングルが何枚か存在する。左は映画『全日本フォーク・ジャンボリーの記録』の主題歌として録音された「だからここに来た(c/w)コペルニクス的転回のすすめ」(URS-0029)で右は「家は出たけれど(c/w)君を待っている」(URT-0050)。後者のジャケット裏でメインとなっているのははっぴいえんどのメンバー写真だが、おそらく彼らのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』(通称ゆでめん)録音時のものじゃないかな。鈴木茂の写真が全く同じに見えます。

 が、アルバム・タイトル通り、岡林信康は『俺らいちぬけた』と、そんな世界を抜け出していった。そのアルバムが発表された数日前に、彼が生み出した曲をすべてライヴで歌おうと企画されたライヴが開催され、それが3枚組のLP『狂い咲き』として発表されたのが1971年の暮れ近く。その頃、すでに彼はシーンから姿を消して、田舎暮らしを始めていた。

 もちろん、彼はその後に復活し、試行錯誤を繰り返しながら、活動を続けていく。一方で、自分は同じようなシーンから登場してきた数々のアーティストや歌から大きな刺激を受けていった。が、そのきっかけとなったのは、紛れもなく岡林信康があの時代に発表した3枚のアルバムやシングルに刻まれた歌の数々。それは音楽や歌がただ消耗されていく「流行り物」ではなく、生き方さえをも変えるなにかであることを雄弁に教えてくれたように思える。

 実は、その岡林信康のライヴを初めて体験したのは2011年のフジロック。彼の歌で涙を流した頃から40年を経ていた。その時の模様をスタッフとして撮影し、その後、幾度か一緒に演奏したことがあるというドラマー、池畑潤二氏に彼を紹介してもらうことになるのだが、あの時の緊張感はなんだろう。これまで世界のロックスターと幾度となくインタヴューを繰り返しているという、いい年になったオヤジがかっちんこっちんになっていた。正直に言います。自分にとって、岡林信康はボブ・マーリーやジョン・レノンに匹敵する伝説なのです。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬に更新です。 次回更新日は22年1月中旬予定です。お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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