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花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第10話 - 「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」から「右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」まで

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第10話。「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」から「右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」と教えてくれたのが深夜放送?

 生まれ故郷の岡山を離れ、大阪市東淀川区の小さなアパートに引っ越したのは、幼稚園の卒園をわずか一月後に控えた1960年頃。それを覚えているのは子供心にもちょっと悔しかったからなんだろう。その頃の大阪市内にはまだ田んぼがあって、やたらでっかい蛙をみつけたことを覚えている。ウシガエルってヤツか? 野球帽をかぶせて捕まえようとしたら、そのまま帽子と一緒にぴょんぴょんと跳ねながら姿を消してしまったなんてこともあったような。それに、すぐそばを流れる淀川で遊んだことや、その水を飲んだという、吐き気のするような記憶も残っている。げにガキは恐ろしい。

幼少期の筆者
音楽ジャンキーの卵、めでたく小学校へ入学。ウシガエルを追いかけ、淀川の水を飲むという、おぞましい記憶を持つのだが、それが音楽とどう絡んでくるのか?

 といっても、そこにいたのは数ヶ月。当時は、けっこう家賃が高かったという、できたてほやほやだった府営住宅の抽選に当たって、高校を卒業するまで10年ほどの成長期を、南河内郡美原町と呼ばれる町で過ごすことになる。今では、堺市に編入されて、美原区と呼ばれているらしいが、当時、住宅街のまわりはほとんど田んぼで、虫の大群が雲のように移動する光景なんぞ珍しくもなかった。けっこうな距離を歩くのだが、最寄りの駅は南海高野線萩原天神。バスを使えば初芝だったけど、なんばから急行や準急で堺東に出て、そこから鈍行に乗り換えてたどりつく大阪の田舎といっていいだろう。

 家は、4階建ての、通称、星形ビルの3階。おそらく、あの頃は物珍しい建物だった。各階の中心部から3世帯用の部屋が突き出るように配置された最新型。が、当然のようにエレヴェーターはない。2DKで6畳と4畳半ぐらいの和室に板の間(これって、死語? フローリングね)のダイニング・キッチンは8畳ぐらいあったかも。まだまだ内風呂は珍しく、ご近所の銭湯に通っていた時代だ。小さな部屋には二段ベッドがあって、自分が上で寝ていたのを覚えているのは、一度寝ぼけて落ちそうになったという希な経験をしているからかしらん。そのDKの端っこに机を買ってもらって、目の前にラジオを配して、勉強にいそしんでいた。

「えっと〜、次のリクエストは南河内郡の...」

 って、自分の名前を呼ぶ声がそのラジオから聞こえてきたことが、あったような、なかったような。はっきりとは覚えてはいないけど、60年代終わりから70年代初めの子供達を熱狂させたのは間違いなくラジオの深夜放送だった。もちろん、高校受験に向けた勉強をしながら、ラジオを聞くってのが普通なんだろうけど、ひょっとすると、受験勉強ってのは言い訳だったのかもしれない。なにせ、ラジオが楽しくて仕方がない。しかもリクエストやらコンサートの招待券が当たるかもしれないとハガキを出してみたり。それが読まれると大騒ぎして自慢する友達もいっぱいいた。というので、深夜放送を聞きたくて夜更かししていたような気がしないでもない。

 おそらく、岡林信康をきっかけに邦楽の世界にとっぷりと浸かり始めるという変化が訪れたのは、ラジオを聞く、この時間帯の変化にあったように思える。学校に行っている昼間にラジオを聞くことはなかったけど、夕方から夜にかけた、いわゆるゴールデン・タイムの主流は歌謡曲やポップスにロック。その一方で、深夜と言えば、異色のディスク・ジョッキー(今で言う、パーソナリティね)が、独特の語り口で、ふつうなら聞くことができない音楽の世界への扉を開いてくれたものだ。

まだ高校生だった中川五郎の作詞で、それを取り上げて歌った高石友也のシングルが大ヒットを記録。なんと90万枚を売り上げたらしい。

 関西で人気だったのは毎日放送の「チャチャ・ヤング」で、パーソナリティとして名を連ねていたのは、当時のアンダーグランド・シーンで頭角を現していた、いわゆるフォーク・シンガーの方々。まだ、アリスを結成する前、ロック・キャンディーズというフォーク・グループの顔として知られていた谷村新司や五つの赤い風船の西岡たかし、『受験生ブルース』のヒットで知られる高石友也に、加川良や金森幸介などがいた。唯一、SF作家の眉村卓が浮いていたような気がしないでもないが、彼をきっかけに知ったのが星新一や筒井康隆。ショートショートという短編の面白さに「開眼」したのがこの時だったと思う。

 まだ「放送禁止」や「発売禁止」という言葉が、物珍しかった頃だったせいか、後にそう「呼ばれる」歌もいっぱい流れていた。その背景に関して書き始めると長くなるが、ベースにあるのは自主規制。音楽が社会的な影響力を発揮し始めた時代、もともとメジャーのレコード会社にあった「レコード制作基準倫理委員会」(通称、レコ倫)が、「これは問題だ」とした楽曲を「発売しない」と決定するというケースが幾度も起きていた。それを受けて、そういった干渉を受けることなく独自に作品を発表する日本初のインディ・レーベル、URC(アンダーグランド・レコード・クラブ)生まれる。が、今度はそういった作品の数々が放送業界の、正確には存在しない「放送禁止」という「自主規制」で潰されていくようになる。

映像ではないかもしれませんが、「新宿西口フォーク・ゲリラ」の生々しい空気を感じさせてくれる写真の数々。歌は確実に彼らの「声」であり、「武器」であったように感じますが、今のみなさんはこれをどう見るんだろう。

 70年安保闘争からヴェトナム反戦運動を通して、フォーク系を中心に音楽が大きな影響力を発揮し始めていたことも背景にあるんだろう。それを端的に象徴していたのが新宿西口フォーク・ゲリラだった。音楽で反戦平和を訴えていたここに集まるようになったのが数千人の群衆。実際に体験したことがないので、想像でしかないが、どこかでそれは「反戦フォーク」を中心とした抗議集会であり、同時にストリート・フェスティヴァルのようなものだったんだろう。それを受けて、権力側が本来は「広場」だった場所を「道路」とこじつけて、道路交通法を盾に「違法集会」だと機動隊が導入される事態にまでなっていた。いわば、政治的圧力が、おそらく初めて、直接音楽に加えられたのがこの時だった。

 お隣の韓国では音楽や文化の影響力が遙かに強力だったのか、あるいは、恐れていたんだろう。軍事独裁政権によって、同じような運動が徹底的に葬り去られてく。そんな動きを象徴する若者たちに対して、文字通りの長髪狩りが行われ、フォーク・ギターが燃やされるという、日本では想像を絶する事態に発展していた。さらに、自主規制なんて生やさしいものではなく、検閲の時代に突入。いわば、「文化狩り」が行われて、自由に音楽を発表したり、レコードを制作するのが不可能になるのだ。しかも、検閲は海外のアーティストの作品にまで波及。当時の韓国盤をチェックしてみると、曲数が異様に少ないアルバムも珍しくはない。数多くのアーティストの作品が発売禁止、輸入禁止となり、当時は「レコードを密輸する」音楽ファンが後を絶たなかったという。徐々に緩くはなったんだろうが、基本的にこの暗黒時代が90年代初期まで続いたことが韓国ロックシーンの活性化を阻んでいた。

Paul SImon "One-Trick Pony"
こんな作品にまで「検閲」?と思わせるのがポール・サイモンが1980年に発表したアルバム『One-Trick Pony』。彼が主演、脚本を書いた映画のサントラで、右の韓国盤(OLW-118)の曲目を見ると3曲が削除されているのが判る。1981年に初めて滞在したソウルで購入

 一方、日本では盛り上がりを見せたフォークの影響力を政治が利用し始めていた。それ以前から、より広く一般大衆に政治的影響を与えようとした「うたごえ運動」と呼ばれるものも存在したことが背景にあるのかもしれない。要するに、演説やレクチャーではなくて、音楽で大衆を釣るという発想かあったような。が、政党や政治組織、運動体を越えて、さらに大きな支持を集めていったのが、音楽産業によって「作られた」音楽ではなく、一般の突き上げで「生まれてきた」フォーク。彼らは政治的に「利用される」ことを嫌い、そこから逃れようとあがき始める。それを端的に示すのが、以前にも書いた岡林信康の初期三部作。『わたしを断罪せよ』から『見るまえに跳べ』を経て『俺らいちぬけた』となるという、アルバム・タイトルを見るだけでも、そのニュアンスを感じることができる。

 同じようなことが世界中で起きていた。アメリカでは公民権運動からヴェトナム反戦を通じて、絶大な影響を与えていったのがブルース、ソウル、フォーク、そして、ロックといったポップ・ミュージック。多くのミュージシャンやファンが政治や社会の変革に向き合いながら、画期的な成果を感じられることもなく、そんな動きが音楽産業に飲み込まれていく。その結果、どこかで「壁」に突き当たっていたのが1970年頃かもしれない。それを象徴していたのが、ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンの死やザ・ビートルズの解散を受けて囁かれ始めた言葉だった。「ロックが終わった」あるいは、「ロックは死んだ」とよく言われたのだが、そこで使われていた「ロック」とは音楽文化にまつわる幻想だったのかもしれない。同時に、音楽や文化が体現する自由は、右や左どころか、自らの呪縛からも解放されることを求めていた。それで自由なの? それが愛と平和なの? そんな問いかけが、あの頃に浮き上がってきたように思う。

1971年に発表された加川良のデビュー・アルバム『教訓』の巻頭を飾る名曲「教訓 I」。珍しく、なんと歌詞の英訳が加えられた映像がYou Tubeにアップされている。

 その頃の深夜放送で流れ出てきたのはそんな歌の数々だった。特に影響を受けたのは加川良。彼が語りかける世界は、それまでの「当たり前」を完膚なきにぶっ壊して、全く違った見方、感じ方どころか生き方を示してくれたようにさえ思えていた。それを象徴するのが、マイナーな世界ではあったかもしれないけど、ヒットすることになった「教訓 I」。後に多くの人たちにカバーされることになるこの曲は、基本的に反戦歌と認識されているかもしれない。でも、それよりも大きな意味を持っていたのは、「青くなってしりごみなさい、にげなさい、かくれなさい」と繰り返されるフレーズの前に歌われる言葉だった。そこでは男らしさだとか、かっこよさなんてものをことごとく否定。女々しくてなにが悪い? 女の腐ったのでええやないか。それまでこんな歌どころか、言葉なんぞ耳にしたことがなかった。そして、その曲がタイトルとして使われたデビュー・アルバムの最後締めくくり、「伝道」という曲では、「悲しい時には、悲しみなさい」と歌われる。無様でもいい。かっこわるくてもいい。そんなこと、どうでもいいじゃないか。と、語りかける言葉の数々がどれほど新鮮に響いたか。そこには音楽や文化を政治的に利用したがっていた連中が期待していたものは、ひとかけらもなかった。

 彼が口にした言葉で、今も脳裏にこびりついているのは、伝説となってしまったバンド、ジャックスの早川義夫が発表したソロ・デビュー作に付けられたタイトルだった。『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』。素晴らしいアルバムなんだが、そのものよりもこの言葉に持っていかれた。もちろん、この言葉は、直接、具体的な事象に言及しているんじゃないけど、これを頻繁に口にしていたのが加川良。この時、ラジオの番組でよく揶揄していたのはベルボトムか? 欧米から日本に伝わったロックやソウルの影響もあったんだろう、今で言う「フレア・ジーンズ」が大流行したことがある。「あんな風になりたい」と思ったんだろう。男も女もやたらヒールの高い靴をはいて、身につけるのはぴちぴちぱんぱんのジーンズで裾がぴらぴらに揺れているのだ。まぁ、決まっている人はそれでいいんだろうけど、短い足を長く見せて、小太り体型を細く見せようと必死になって歩いている「流行に敏感な人達」は滑稽でもあった。そんな個人の趣味なんで、どうでもいいんだが、関西弁で言うところのそういった「ええかっこしぃ」が、やたら不細工に見えるようになっていった。

 本来なら、ジーンズは作業用のズボンで、Tシャツは下着のようなものだったはずなのに、それが日常になっていった時代だった。アメリカかぶれってのじゃないけど、親父はそれを好ましくないと思っていた。朝鮮戦争からヴェトナム戦争に日米安全保障条約で在日米軍基地を恒常的に戦略拠点としてきたアメリカは目の敵で、彼のような左翼の専売特許になったのが「米帝国主義」という言葉。彼らにとって、アメリカは「敵」なんだろう、よく言われたものだ。

「なんや、お前は。アメリカのまねばかりしやがって」

 と、共産党を盲信する彼としょっちゅぶつかることになる。岡林信康が歌った「絶望的前衛」という曲のことを話すと「なに? どこが絶望なんや」と、ぶち切れる彼を見て、まるで政党が宗教団体にさえ思えるようになっていた。その一方、右翼は右翼で「大和魂はどこへ行った? アメリカかぶれしやがって」と、同じような言葉を吐きかける。なんだかなぁ... 「右も左も真っ暗闇じゃございませんか...」という台詞の入った、鶴田浩二のヒット曲「傷だらけの人生」があの時代を見事に言い当てていたのかもしれない。政治のことを語る連中ってのは、みんなこうなの? 頭が硬直していて、柔軟性のかけらもない。と、このあたりがきっかけで政治的なことから目を背けるようになると同時に、大人や世間一般に対して嫌悪感さえ感じる反抗期にさしかかっていたのかもしれないなぁ。

まさにその通り。鶴田浩二の大ヒット曲、『傷だらけの人生』は1970年の世相を見事に反映していた。「世の中、右も左も真っ暗闇じゃぁござんせんか」政治になにができる? ざけんじゃねぇよと思った中学生にもこの歌は響いたのです。

 


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬に更新です。 次回更新日は22年2月中旬予定です。お楽しみに!


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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