花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第17話 - めでたく家を出て、演劇から昔の流行歌にはまるのだ | レコードCDの買取はレコードシティ買取センター【安心・簡単・全国対応】

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花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第17話 - めでたく家を出て、演劇から昔の流行歌にはまるのだ

花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第17話。大学に行くのを口実にめでたく家出の夢が叶い、演劇活動で昭和歌謡に目覚める。

「絶対、家を出てやる」

 と、思い始めたのはいつの頃からか、はっきりとはしないんだが、中学生から高校生へと成長するにつれて、その気持ちが大きくなっていたように思う。まぁ、反抗期ってのもあっただろうし、人生の過程でそういった流れってのは当たり前のこと。とりわけ大げさに語るタイプのものではないのかもしれない。でも、なかなか忘れられない体験でもある。

 一番最初の家出は「ものの弾み」ってやつで、そんな意志を持ったものではなかった。小学校の2〜3年ぐらいだっけ?「あんたみたいな子は、もう帰ってこんでもええから、出ていき!」とおふくろに怒られて、放り出されたのがドアの外。一軒家ではなくて、4階建て集合住宅3階の踊り場で、「さぁ、どないしょ」と少しばかり悩んだ後、ちょっと年上だった、お向かいさんの友達が乗っていた自転車を拝借して、ぷら〜っとこぎ出していた。「家出」ってよりは、捨てられたような感覚で、行く当てなんぞあるわけがない。結局、交番のそばに腰を下ろして「どこ行こうかなぁ」と思案している最中に、「ぼく、どないしたん?」と、お巡りさんに拾われていた。詳細は遙か記憶の彼方に消え去っているが、彼に連れられて家に引き戻されたように思う。

「ほんまに出ていくとは思わなんだわ。もう、あたしゃ、冷や汗かいてなぁ。あんたはなにをするやわからんから、気ぃつけて怒らんとアカンと思うたんや」

 後に、おふくろからそんな話を聞いたことがある。まぁ、なんとも言えずクソ生意気なガキだったんだろう。中学生の部活でも同じようなことをやっていた。バスケット部のキャプテンだった3年生の頃か、なにかをきっかけに顧問の教師とぶつかって、ぶち切れた彼にこう言われたことがある。

「なんやぁ、お前ら、俺の言うことが聞けんっちゅうのか! ほんなら、勝手にさらせ!」

 普通だったら、「はい、すいません」で終わるんだろうけど、自分はウキウキしながら、「ほな、自分らでやらせてもらいます」と真剣に応えていた。「これで他校との試合も自分たちで調整できるなぁ」なんて思いを巡らしていたんだが、他のみんなは「それ、あかんやろ」と中学生らしい素直な対応をとって、大事にはいたらなかった。まぁ、もともと大嫌いな歴史の先生で、日頃から封建的で右翼的な言動にむかついていたってのも、あの反抗的な態度の裏にはあった。

気分は岡林信康だったのかしらん、これははっぴいえんどをバックに録音されたヴァージョンを収録した7インチ『家は出たけれど (c/w) 君を待っている』(URT-0050)。この他に、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドをバックにしたスタジオ録音や柳田ヒロのグループを率いたライヴ・ヴァージョンも面白い

 その次は中学生の頃かね。家出をしようとして、おふくろに「あんたが着てるパンツも、あたしが買ったんや。出ていくなら、すっぽっぽんで行け」と言われたのがDIY精神の発露となったことは以前書き残した。おかげで高校生の頃にはバイト三昧で稼いだ金で買ったジーンズにTシャツやUSアーミー放出ジャケットで長髪という、ヒッピーっぽい少年が出来上がっていた。このあたりから絶えなかったのが親父との大げんか。なにせ、なにせ、彼は某政党を宗教のように信じて、アメリカを毛嫌いしていたのだ。

「この野郎、『絶望的前衛』だとぉ?アメリカの真似ばかりしくさって...」

 と、岡林信康の曲タイトルを口にするだけで切れる親父に、自分もぶち切れていた。以来、政治そのものに対する嫌悪感が膨れあがっていく。その結果のひとつが再びの家出未遂。この時は、おふくろと弟に泣かれて、諦めていた。おそらく、真剣に受験を始めたのは、これで大手を振って「家を出られる」という思いがどこかにあったかもしれない。

 圧倒的な劣等生で不良だったというのに、なにを間違ったか国立大学を受験して合格。小学生から高校までを過ごした大阪深南部を離れて、生まれ故郷の岡山へと「めでたい」家出が実現したのが1974年だった。当時、国立に行くのは貧乏人というのが相場だったらしく、お嬢さんが集まる地元の某女子大生たちは、つきあう相手に関して「岡大(岡山大学)だけは避ける」ってのが常識だった... と、聞かされたのは、ごく最近のことだが、実際にそうだったんだろうと思う。確かに、当時の自分の仲間の多くは貧乏くさかった。

 今なら、学生用マンションが普通なんだろうが、当時、一般的だったのは大学の寮か下宿。普通の家庭に食事付きでお世話になる下宿は金がかかる。といっても、むさ苦しい寮生活は嫌だというので、自分が選択したのは間借りというものだった。寮に毛が生えたようなもで、独立した部屋で生活して、大家さんのお風呂を借りるって感じかね。巷では四畳半フォークなんて言葉が囁かれていたが、自分の部屋はなんと三畳。そこに1畳ほどの押し入れが備わって、月の家賃が一月3000円だった。今じゃ、想像つかないだろが、大学の授業料が年間1万8千円時代のこと。とりわけ安い家賃ではなかった。

 間借りしていたのは、大学の裏門を出て、岡山理科大学へと続く坂道の途中。それからずっと後に総理になる安倍晋太郎氏と昵懇となって、世間を騒がせた加計孝太郎氏が理事長を務める大学だ。っても、安倍氏と私は同い年。数十年後にそんなことが起きるなんぞ、思いもよらない頃のこと。その自転車置き場あたりにある、ごく普通のサラリーマン家庭の2階に4畳半と三畳の部屋がいくつかあって、そこは岡大生数人が暮らすちっぽけな寮のような雰囲気を醸し出していた。

 大学までは徒歩数分と通学するのに金はかからない。食事は学食か、裏門そばにあった格安の学生向け大衆食堂がメインとなる。どれほどの金額で食事ができたのか全く覚えてはいないが、ググってみると、今でさえ日替わりランチが600円ほどで、300円ほどでカレーも食えるような。くじら肉の角煮やらフライが当然のように定食を飾ったものが、おそらく、100円程度で食えたのではないかしらん。最初の1年ほどはわずかの仕送りをしてもらっていたように思うが、貧乏学生を絵に描いたような生活の毎日。手持ちの金がなくなると、喰らっていたのは、ねこまんま(ご飯に鰹節と醤油)とかソース(をぶっかけるだけの)飯、あるいは、きなこ(と砂糖を混ぜてのっける)ご飯に、ちょっと余裕があれば缶詰ひとつがオカズ。と、今では想像もできない食生活を送っていたのに、なぜか音楽には金をつぎ込んでいた。

 この部屋には自宅から持ってきた4チャンネル・ステレオのリア・スピーカーのセットをデスクと押し入れの一角に設置。その真ん中で音楽を聞いていた。アンプはパイオニア製の安物で、プレイヤーは先輩から譲り受けていたのかもしれない。3年生になると、同じ家の先輩が出ていった4畳半に引っ越しして、目の玉が飛び出るほど高額な10数万円もしたケンウッドのダイレクト・ドライヴを購入。実は、今もそのターンテーブルが健在で40数年も使っているのだから、けっして高い買い物ではなかったということになる。加えて、貧乏学生にしては珍しくテレビもあった。言うまでもなく、今では、忘却の彼方にさえ浮かばないだろう、白黒のブラウン管式テレビだが、それで充分だった。

 正直なところ、勉強したいものなんぞなかった。というよりは、なんで勉強しないといけないのか? 学ぶということはなになんだろうと考える学問が哲学なんだろうと、法学部と経済学部と文学部が一緒くたになった法文学部哲学科を志望している。これが幸いしたのか、災いとなったのか、初めて受講したときに出会った哲学科の新入生も先輩も変人だらけで、実に面白かった。そんななかのひとり、チョットとんがった先輩のおねぇさんに演劇部へ引っ張り込まれている。彼女が自分を見て最初に放った一言は「あんた、ほんまに1年生か?」。あの頃から、実際の年齢より遙かに年上に見えるってのが、生涯にわたっていろいろなところで役に立つことになる。

 演劇に興味があったのか? いや、ほとんどなかった。なによりも好きなのは音楽のはずなんだけど、高校時代もなぜか音楽系ではなくて映画研究部に属していた。それも含んだ総合芸術が映画だから? さて、そう思ったのかもしれない。アメリカのニューシネマからフランスのヌーヴェルバーグで音楽が果たした役割は確かに大きかった。その延長線上に演劇がある? かもしれない。といっても、実のところ、深く考えていたわけではなく、風の向くまま気のままに流れて行ったにすぎない。

これぞフランスのヌーベル‐バーグを代表する傑作だろう。若干25歳だった映画監督、ルイ・マルの作品『死刑台のエレベーター(原題 : Ascenseur pour l'échafaud)』で使われたのはマイルス・デイヴィスが、ラッシュを見ながら即興で演奏したという音楽。この頃、マイルスは30歳を少し過ぎた頃のはず。

 あの頃、巷で話題になっていたのはアンダーグランドのテント劇団。劇場を離れて、小さなサーカスのように空き地や川岸にテントを建てて公演するというもので、彼らがなにやら猥雑な未知の世界を見せてくれるように感じていた。そのあたりにそそられたってのもあったかもしれない。あの頃、音楽も映画も演劇も漫画もアートもなにもかもが、微妙に絡みながら旧態依然とした社会に反旗を翻すように、新しい価値観を照らし出していた。その流れに吸い込まれたのかもしれない。

 地方学生の演劇がそれほどとんがっていたとは思えないが、これをきっかけに未知の世界に足を踏み入れていった。特に前述のアングラ芝居の数々。岡山城下のあたりで見た、唐十郎率いる通称赤テント、状況劇場も面白かったし、大雨にやられて水かさが増していた旭川の岸辺で、そんな自然までもを演出に使った黒テントにはドキドキするような興奮を覚えていた。あるいは、豚がテント内を走り回るなんてことまでやっていたアナーキーな曲馬団や、なんでも岡大の学生劇団から始まったらしい、つんぼ桟敷は大学構内で体験。特に影響を受けたのは、山崎哲が本を書いていた後者に佐藤信の黒テント。ここで描かれていた時代の音楽への扉が開かれていく。そして、彼らの芝居を通じて接することになったのが、大正時代も含んだ戦前から終戦後に昭和30年代あたりのはやりうた、歌謡曲。音楽や歌が見事に時代を映し出す力を持っていることをまざまざと感じることになるのだ。

いろいろググってはみたものの、なかなか当時のアングラ劇団の映像はみつからない。このニュース映像でちらりと黒テントと赤テントが話題になっているぐらいかなぁ。

 英米のロックから日本のフォーク&ロックに傾倒していた自分が、いきなり聞き始めたのが、当時つきあっていた女性の両親が持っていた「懐メロ(懐かしのメロディ)」のコンピレーション。多くの音源はオリジナルのSPレコードから盤越しされた、ノスタルジーとしかいいようのない音楽なんだが、それが面白かった。カントリーやジャズにシャンソンから、はたまた民謡に演歌までなんでも飲み込んだ歌やメロディの向こうから、絶対に体験できない昔の日本やまだまだ夢のような世界だった海外が顔を覗かせてくる。李香蘭(山口淑子)の「蘇州夜曲」や伊藤久男の「イヨマンテの夜」でエキゾチックな世界を感じて、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」や「買い物ブギ」で終戦直後の苦難を乗り越えようとしていた人々のエネルギーを受け取っていた。おそらく、それが40数年後の和モノ45コレクターへの伏線となり、DJとしての活動にも繋がっている。

李香蘭(山口淑子)主演の映画「支那の夜」より。後にこの曲が「蘇州夜曲」と呼ばれるようになったらしい。一時は日本の大陸侵略を正当化する国策映画と批判され、音楽と政治の微妙な関係について考えざるを得なくなる。が、音楽も映画もアジアのみならず様々な国で評価され、この歌に関しては無数のカバー・ヴァージョンが生まれているのです。

 アングラ芝居同様に、そういった流れの発端になったのがあがた森魚の大ヒット・シングル「赤色エレジー」から、それを収録したデビュー・アルバム『乙女の儚夢(ろまん)』、続く『噫無情(レ・ミゼラブル)』でもあった。まだ「レトロ」という言葉が一般的には使われていなくて、ノスタルジーが幅をきかせていた時代。ジャケットのイラストを描いていたアーティスト、林静一のルーツをたどって竹久夢二に憧れ、彼が画家、詩人であるのみならず、ヴァイオリンを奏でるミュージシャンであることも発見していた。といって、彼が公の場で演奏したのかどうかは知らないが、写真は残っている。また、彼が船でフランスに向かったとき、見送ったなかに若き日の淡谷のり子がいたなんて話をどこかで読んだ記憶がある。

 いわゆる知的好奇心に溢れていた時代。やたらクソ難しい話をするのが当たり前とされていた哲学科の学生だ。第一外国語でフランス語を、そして、第二はドイツ語を選択。お気に入りの助教授の影響でジャン・ポール・サルトルの本をフランス語で読むなんてことをしていたが、どこまで理解していたのか... でも、そんな専門書より興味があったのは音楽や漫画本。毎月買っていたのは青林堂の『ガロ』という漫画雑誌で、つげ義春やつげ忠男兄弟を知って、日本語でブルースを歌うシンガーソング&イラストレーター、シバ(三橋誠)の『青い空の日』や『コスモスによせる』のイメージや歌に彼らの作品が重なって聞こえていたものだ。

 おそらく、その頃だったと思うが、大好きな漫画にバロン吉元の『柔侠伝』というシリーズがあった。週刊漫画アクションで連載されていた、柔道家、柳勘九郎からその息子、勘太郎に孫の勘一という親子数代にわたる物語で、それぞれを主人公に『昭和柔侠伝』から『現代柔侠伝』とタイトルが変遷していくのだが、戦前、戦中、戦後の流れを描いた勘太郎の時代に惚れ込んでいた。実は、あがた森魚の『噫無情 (レ・ミゼラブル)』には、そのタイトルが挿入された「最后のダンスステップ (昭和柔侠伝の唄)」もあった。

あがた森と緑摩子によるシングル「昭和柔侠伝の唄(最后のダンスステップ)」(OF-23)ジャケットのイラストは、漫画家、バロン吉元によるもので、彼の作品『昭和柔侠伝』に登場する柳勘太郎の妻、朝子のはず。

 当然、フィクションなんだが、そのシリーズに登場していたのが、実在する人物、加太こうじ。紙芝居の名作『黄金バット』を世に広めた方で、彼が執筆した『歌の昭和史』が面白くて、何度も読み返していた。今も手元にあるこの本には、軽く書き込みもあり、これに大きな影響を受けたのは間違いない。ここから、昭和歌謡にはまったんだが、今流行の『昭和』よりもさらに昔のものがメインで、逆に学生時代の歌謡曲には反感を持っていた。商業主義そのままの「体制派」って感覚でしか見ていなかったように思う。「反体制」こそ美しいという時代の典型だったんだろう。

大正から昭和40年代半ばまでの歌とその背景に描かれた名著。ここで『演歌』とは自由民権運動が生み出したことを知る。今のイメージとは大違いなのだ。

 そこで得た知識で書き始めたのが芝居の脚本。といっても、小林旭になれなかった三上寛なんて実在のアーティストやジプシー・ローズというストリッパーから拝借したジプシー・ズロースも飛び出してくる。主人公は小林旭と浅丘ルリ子気分の二人組という感じのはちゃめちゃなコンセプトで書き始めたんだが、情宣もかねた劇場外で繰り広げられる導入部分のイントロだけで30分が費やされる。なかなか本編が始まらない... というので、当然のように未完成。執筆と同時に、その情宣部分でクラリネットを演奏しながら、ちんどん屋っぽく練り歩くというシーンが登場するので、先輩が持っていたフランス製Jeuffroyというメーカーのものをいただいて吹き始めたりもしていた。といっても、基礎的な練習なんぞそっちのけで、いきなり曲を吹きたいというのでうまくいくわけはない。だが、なぜか「美しき天然」は吹けたというのが不思議でしたな。

 管楽器に関わらず、どんな楽器でも一生懸命練習しないとまともに演奏できるわけがない。それができないってだけですでに失格なんだが、これをきっかけにそんな楽器を使ったレコードを聴いてみたいというのは当前の流れなんだろう。ここで買ったのが、日本が世界に誇るクラリネット奏者、北村英治の作品『テディ・ミーツ・エイジ』(PA‐3021〜22)。ピアニスト、テディ・ウイルソンとのスタジオ録音を1枚に、そしてライヴ録音をもう1枚に加えた2枚組で、ひょっとしてこれが初めて買ったジャズのアルバムかししれん。いずれにせよ、必死にならないと音も出せない楽器を軽々と吹きながら、柔らかい音を出すプロの演奏に感動。って、プロってのはそうなんだろうけど、北村英治のみならず、ジャズ・スタンダードの素晴らしさを凝縮したこのアルバムがお気に入りとなったのは言うまでもない。いまでも手放せない作品で、ときおりレコード棚から引っ張り出して針を落とすことになる。

 おそらく、レコード・コレクターの深みにとっぷりとはまりだしたのがこの頃かなぁ。これはまだまだ序の口で、泥沼はまだまだ先のことと、話は延々と続いていくのです。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新です。 次回もお楽しみに!


 


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花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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