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花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第13話 - 関西フォークのメッカ「ディラン」とアート・シーンを牽引した「モリス・フォーム」に吸い込まれる

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第13話。関西フォークのメッカ「ディラン」とアート・シーンを牽引した「モリス・フォーム」に吸い込まれた高校時代。

「兄ちゃん、今高(いまこう=今宮高校)やろ? 俺もや。先輩や。悪いけど、煙草、一本、くれへんか?」

 南海電鉄と環状線が交差する新今宮駅にある、裏口のような二階の改札口から階段を降りて、高架線沿いに登校する途中、そんな声をかけられたことがあった。

「おっちゃん、俺、高校生やで。持ってるわけないやん。」

 と、応えて受け流すんだけど、こんなの日常茶飯事で、時には、けんかになりそうなことも少なくはなかった。なんの因果か入ってしまった映画研究クラブ(映研)のいわゆる「部活」(という雑談)を終えて、仲間の女の子と一緒に改札に向かっていたとき、階段のあたりでスカートをめくりに来たおっさんに遭遇したこともある。「おっさん、なにすんねん!」と間に入ると、「にいちゃん、髪長いなぁ」と絡まれて、一触即発ってのも一度や二度ではなかったように思う。

超面白い歌謡曲のシングルを集めたコンピレーション・シリーズ、幻の名盤解放歌集(テイチク編)『シューベルト物語』(PCD-1520)にも収録され、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの『Dracine Ching Dong』(SF-070)でもカバーされた名曲、三音英次の『釜ヶ崎人情』(A-1)

 この駅周辺の通りというと、どこかで饐(す)えた臭いが漂っていた。しょんべんやゲロやなにかが腐ったようなものが混ざり合った、そんな空気をくぐり抜けて学校に通うのだ。おそらく、知っている人も多いだろう、このあたりが俗に言う日本三大ドヤ街のひとつ。あいりん地区、あるいは、釜ヶ崎と呼ばれていたエリアとなる。今ではかなり治安も良くなって、安く宿泊できるというので、金をかけないで旅をするバックパッカーが集まってくるなんて話も耳にしているんだが、当時は、危険きわまりない地域と言われていた。実際、学校帰りの電車から暴動を目にしたことも幾度かある。「暴力手配師」だとか「タコ部屋」なんて、ふつうに生活していたらほとんどお目にかからない言葉が当たり前のように耳に入ってくる街の隣に高校があった。

 高校に入学したのは1971年。高度経済成長も終わりが見えて、70年の安保闘争あたりを核に学生運動が燃えさかった直後。いろいろなものがうごめいていた時代だった。

「いやぁ、こないだな、ヘルメットと棒持って電車乗ってたら、隣に先生が立っててな... 」

 と、それから数年の後に学校の教師になってしまった、ひとつ年上の先輩に、そんな話を聞いたこともある。日本中が揺れ動いた学生運動の残り香をあらゆる場所で感じることができた時代。とはいうものの、ほんのわずかに「遅れてきた」のが自分たちの世代だ。肌でそんなことを感じなかったけど、端っこの端っこで引っかかっていたのかもしれない。それは自分だけじゃなかった。校舎の二階と三階の間、踊り場の脇にあった映研の部室の向かいには「空蝉(うつせみ)」と呼ばれるクラブがあって、その中心人物がそのあたりにやたら詳しかった。今の世代にはなんのこっちゃさっぱりわからんだろうが、社青同(社会主義青年同盟)がこの学校では幅をきかせていて、学生運動らしきものが存在したことも教えてくれたのが彼だった。そのあたりにあまり興味はなかったし、それが本当かどうかも知らなかったけど、好奇心をくすぐられたのが「あいりん地区で赤軍派がやってるラーメン屋」。あれは噂ではなくて、実際にあったみたいだけど、探してもみつからなかったように思う。あるいは、「あれかなぁ」と思いつつ、怖くていけなかったのか?

 さて、その「空蝉」がなんのクラブだったのか、からっきし覚えてはいない。社会科学研究部? いや、そんなに堅苦しい感じじゃなかったな。なんだっけ? 一方で、記憶に残っているのは、彼らが8mmフィルムで撮影した自主映画「空蝉組」かな。こちらは映研だというのに、それを鼻で笑ったかのような痛快娯楽作品に仕上げていたのには、驚かされたものだ。当時流行っていたヤクザ映画、おそらく、『仁義なき戦い』のパロディのようで、めちゃくちゃ面白かったのだけは忘れられない。

誰もがしびれたヤクザ映画の金字塔『仁義なき戦い』。なんと英語の字幕付き予告編がみつかった。これ、海外できちんと紹介されているんだろうか?

 その「政治に詳しい」彼と一緒に初めて出かけたのが大阪のミナミよりも少し南にあるディランという喫茶店だった。最初は、フォーク系の店だという噂を聞いて行ったのかなぁ... きっかけがなにだったのかは全然覚えてはいないが、高校の前を走っている国道26号線をまっすぐ北上。大国町の駅を通り過ぎて、道路が大阪府立体育館に向かってグッと右に曲がる手前左側にあったここが、後に自分の人生を変えることになるなんて... その時には露ほども思ってはいなかった。

 なかに入ると右手にカウンターがあって、左手は壁。その前にソファかベンチのような座席があったように思う。その前にはテーブル。奥に行っても、すぐに突き当たるようなちっぽけな店だった。初めて行ったのは夏だったんだろう。白いシャツに黒いズボンでカウンターに座ってコーヒーを注文して煙草を吹かしていたのは覚えている。どう見ても高校生丸出しなんだが、そんなこと誰も気にかけてはいなかった。カウンターの中にいたのは、後に洋子さんという名前だと知る髪の長い女性。彼女がコーヒーを入れてくれて、店を切り盛りしているように見えていた。なにやらかっこいい大人の女性って感じかなぁ。淡い恋心を抱くようになる思春期のガキンチョが、彼女とここで流される音楽に見事に釣られた? ってのもあったけど、なにより居心地がよかったからだろう。それから頻繁に顔を出すようになっていた。

西岡恭蔵『ディランにて』
西岡恭蔵のデビュー・アルバム『ディランにて』のオリジナル(OFL-4)と歌詞カードの裏側で使われている洋子さんの写真。お店に入って右側のカウンター奥の絵ですね。なぜか、左右逆になっている写真がこの裏で使われている。

 なにせ学校から近い。歩いて15分ぐらい。しかも、コーヒー1杯でずっと居座ることもできる。全く売り上げにはならないガキなんぞ、迷惑だったんじゃないかと思うが、文句を言われるでもなく、なにやら自然に受け入れてくれたような気がしていた。そして、放課後はもちろんのこと、ここが学校をふけるには最高の居場所となるのだ。嬉しかったのはそれが当たり前のようにできた美術の時間かね。2〜3週間で油絵を1点描き上げればいいというので、わずか数10分で仕上げて、後は学校を抜け出してディランという流れが出来上がっていった。

 それ以前も、いわゆるロック喫茶なんて場所に行ったことはあった。何枚もレコードを買うなんて夢のような時代。加えて、爆音で音楽を聞くなんて自宅じゃ無理に決まっているというので、そんな場所を探すのだ。確か、道頓堀筋の松竹演芸場(って名前じゃなかったか?)の向かいや戎橋筋にもなにかあったように思うが、かすかな記憶が残るだけで、名前なんぞ覚えてはいない。要するに、どこも「受け入れてはくれなかった」ってことだろう。が、ディランは違った。

上田正樹と有山淳司が発表した名盤『ぼちぼちいこか』(BMC-3003)のジャケットに姿を見せるくいだおれ太郎。

 同じように、映研の先輩を通じて知ることになったのが、モリス・フォームと呼ばれるフリー・スペース、実は画廊だった。ディランからさらに北上して、難波駅から戎橋筋のアーケードをくぐって、ひっかけ橋と呼ばれるあたりで道頓堀筋に入る。上田正樹と有山淳司の名盤『ぼちぼちいこか』のジャケットで有名な「くいだおれ太郎」の前を通って、ひとつ目の橋を左に曲がると、そこはなにやら猥雑な雰囲気が漂う宗右衛門町筋。ここに入ってすぐ右にあるビルの中二階、少し階段を上がると、その左にあった。最初は「ここに行ったら、ただでコーヒーが飲める」なんて話を聞いて行ったように思うのだが、しばらくすると、ここも自分の居場所になっていった。

 振り返ってみると、いきなり関西の音楽やアート・シーンの最重要スポットに導かれていったことになる。ディランを始めたのは後にディランⅡ(セカンド)というユニットでデビューすることになる大塚まさじで、ここが関西フォーク・シーンのメッカとなっていた。彼と共にここを根城にしていた西岡恭蔵のデビュー作『ディランにて』は、言うまでもなくこの喫茶店のことで、歌詞カードの裏(あるいは表か?)に使われている写真には店でコーヒーを入れる洋子さんが映っている。よくもこんなちっぽけな店でライヴができたと思うんだが、幾度かここで体験したものだ。あの頃のチャージと言えば100円が相場で、友部正人がライヴを終えた後、ドアの外で「今日のギャラや」と、お椀のようにした彼の両手に100円玉が流し込まれるのを目にしたことがある。それを手渡ししていたのが、今も続くフェスティヴァルの草分け的存在、春一番を主催する福岡風太だった。

 一方、モリス・フォームを始めたのはアーティストの森喜久雄。といっても、彼は雲の上のような人で面識はなかったと思う。ひょっとしたら、挨拶ぐらいはしたのかもしれないが、ほとんど記憶にない。でも、脳裏に焼き付いているのは、当時19歳と聞いた井筒和幸。後に『パッチギ!』などの映画監督として成功していく人物なんだが、その頃は「やたら元気な兄ちゃん」という印象が大きかった。一度、ここにたむろしていたときに酔っ払いが流れ込んでくだを巻き始めると、「なんじゃぁ、われぇ!」と、えらい剣幕で追い出したことがあった。かっこええなぁと思ったものです。そう言えば、実は、映研の課題で制作した映画とは呼べない代物をここで上映したとき、彼がそれを見てくれたなんてこともあったものだ。

1971年の筆者
モリス・フォームの方が関わっていた、日本では珍しかったタブロイド判のミニコミ新聞を宣伝していたのだな、高校の文化祭かなにかで。

 その他のみなさんともいろいろ話をすることになって、ミニコミの宣伝を手伝ったり、ライヴで遭遇したり... 近所で漫才をやっていた京一京二のひとり、北京一もここの常連で、よく顔を合わせて、言葉を交わしていた。その後、彼は渡米して、パントマイムの勉強をしていたという話を耳にしていたんだが、帰国して結成したのが、今も大好きなソー・バッド・レヴュー。といっても、レコードでしか聞いたことはなかった彼らのライヴを初体験したのは、それから40年ほども後の2014年。フジロックでのことだった。そのライヴを見ながら、関西の仕事仲間と「全然、変わらんなぁ。昔のまんまや。ええなぁ」なんて話していたものだ。

 ちょうどその頃によく行くようになったのが毎月開催されていた100円コンサート。難波の高島屋の8階だったか、ホールがあって、そこで開かれていたのが『六番町コンサート』呼ばれるものだった。いろいろググってみても、なかなかこの話題をみつけることはできないんだが、このおかげでいろいろなアーティストを体験することができた。おそらく、高島屋がスポンサー的にサポートしてくれていたんだと察する。じゃないと、この値段のチケットでライヴは企画できないだろう。はっぴいえんどから山下洋輔トリオ、三上寛に友部正人... 記憶に残っているのは、その程度かも知れないけど、毎回欠かさずチケットを買って通っていたので、当時、いわゆる、アンダーグランドで話題になったアーティストのほとんどはここで体験しているはずだ。

中川イサトが1975年に発表した名盤『黄昏気分』(SOLL-121)

 そう言えば、この4月7日に他界した屈指のギター・プレイヤーにしてシンガー&ソングライター、中川イサトが1975年に発表した名作『黄昏気分』に「六番町Rag」という曲が収録されている。これが上述の六番町コンサートに由来したタイトルではないかと察するんだけど、どうなんだろう。いずれにせよ、この頃、今の言葉で言うなら、オルタナティヴな情報を発信するイヴェント情報誌として影響力を持ち始めた『プレイガイド・ジャーナル』という雑誌のおかげで数々のライヴや映画に芝居といった世界に触れるようになっていた。

 そして、ディランにたむろしていたことで数多くの仲間に出会い、春一番のヴォランティア・スタッフとして音楽の世界に一歩足を踏み込んでいくことになるのだが、それがどう転がっていくのかは、またいつか書き残してみようと思う。

 なお、この原稿を楽しみにしてくれていた大学の先輩で、当時、舞台照明の仕事を教えてくれたのみならず、学生プロモーターだった筆者を助けてくれた友人が2月20日に他界しました。いつか彼もこの連載に登場することになるはずですが、それを読んでもらうことができなくなりました。ご冥福を祈ります。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新です。次回更新日は2022年5月中旬予定です。お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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