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花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第14話 - 春一番の風が今も吹き抜ける

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第14話は青臭い高校生時代に体験した連合赤軍の浅間山荘事件から春一番コンサートへと流れて行くのです。

 大阪深南部のとある駅で電車を待っていると、向かいのプラットホームから自分を見ている人がいた。「だれやろ、知ってる人かなぁ」と、目をこらして彼の方を見ていると、その人がわざわざこちらのホームに移動して、こうおっしゃった。

「われぇ、メンチ切っとんか!」

 ひょっとすると、すでに大阪でも死語となっているかもしれないが、現代の共通語的に翻訳すると「てめぇ、けんかを売ってるのか?」って感じかしら。

「はぁ? ちゃいまん(違います)がな。知り合いの方がこっちを見てるのかと思って、誰やろと思うてましてん」

 と、応えて大事にはいたらなかったんだが、とかくこのあたりに住んでいると、こういった事態に直面することが多かった。なにやら、勝新太郎と田宮二郎による名作映画シリーズの『悪名』の世界がそのまま残っている土地柄のせいかねぇ。堅気の仕事をしていた小学校の同級生に何年ぶりかで銭湯で顔を合わせて、言葉を交わした時も、どこかでヤクザと話しているような感覚に陥ったこともある。また、昔仲の良かった小学校時代の同級生が車を運転しているのを目にして、「おう、キンタ(ニック・ネームね、昔の)やんけ。どうないしてんねん?」と声をかけると、まるでびんたのように跳ね返ってきた言葉は「なんじゃぁ、われぇ」やった。いや、ほんま、河内は怖い。

勝新太郎演じる「八尾の朝吉」と田宮二郎の「モートルの貞」のコンビで始まったのが今東光の小説『悪名』を映画化したシリーズ。といっても、貞は2作目の『続悪名』で殺されるんですが、あまりのヒットで3作目の『新悪名』からその弟、清次として復活しています。関東人、勝新の河内弁には違和感がありましたが、田宮二郎の方は完璧でしたな。

 通っていた高校はずっと北の方にあったし、一応は、進学校的な雰囲気もあったからか、ここまでのがらの悪さは感じなかったけど、あのあたりもかなりのもんやった。しかも、最寄りの駅が南海線と環状線が交差する新今宮で、同じように乗り換えの中心、天王寺経由で来る生徒も多い。というので、周辺各地に通学する高校生たちで駅やホームが溢れるような時間帯もある。というので、珍事が起こる。

「にぃちゃん、金、貸してくれへんか?」

 と、いきなり声をかけられることもあったような。っても、当然、それは、いわゆる「カツアゲ」と呼ばれるもので、彼らが金を返すわけはない。それを知ってか、知らずか、仲間のひとりで、野球部でキャッチャーをやっていた友人は「なんぼ、貸してほしいんや? ゆううてみ(言ってみなさい)」と、応えたんだそうな。すると、最初に声をかけた、いかにも悪そうな方が「あかん、やばいヤツとちゃうか? あとでしばかれる(ボコられる)かも」と、ばつの悪そうな感じでその場を離れたという笑い話もあった。

 すでに半世紀以上昔の話だってぇのに、ちょっと不良っぽく見えるタイプ、いわゆるヤンキーや暴走族系の子供達のイメージが、こと、男の子に関する限り、ほとんど変わってないよう思えるんだが、どんなものかしらん。いわゆる学ラン(詰め襟学生服)を乱れた感じで着るのは可愛い方で、いわば特攻服のルーツ的なスタイルがメイン。っても、特徴的なのは彼らのヘアー・スタイルで、リーゼントをベースに前髪をぺっちゃんこにして伸ばす感じかなぁ。彼らは毎朝ズボン・プレサーを使ってそうするんだなんて噂も耳にしたが、ほんまかどうかはわからん。今との違いと言えば、派手さ加減に髪の色か? といっても、実際のところ、あの頃、髪を染めていたのは、白人ブロンドを真似したストリッパーぐらいで、そんな発想なんぞ思いもよらなかった時代だった。

実は、和モノの名曲が埋もれている女番長シリーズ。第1作の『女番長 野良猫ロック』のこのシーンで使われているのは和田アキ子のヒット・シングル『どしゃ降りの雨の中で』のB面に収録されている「ボーイ・アンド・ガール」ですぞ。

 一方で女子はというと... かなり変わったように思うんだけど、どうでしょ。70年代初期の主流といえば、映画、女番長(スケバン)シリーズの影響か、めちゃくちゃ長い、地面に触れそうなほどのスカートだった。不思議なことに、この一昔前にはUKの女優でモデルのツイッギーによって、ミニ・スカートの一大ブームがわき起こったというのに、それとは真逆。一方で、セーラー服の上はかなり短くておなかが見えるかもって感じ? で、鞄は決まってぺっちゃんこで、あんなかになにが入っていたのか? ものを入れるスペースなんてなかったと思うんだけど、たいていの子は教科書やらノートやらを学校におきっぱにしていたのかもしれん。

 といっても、彼らからすれば、自分たちの方がよほど不良だったのかもしれない。女は長髪で男は短髪が当たり前で、男が髪を伸ばすなんてあり得ないと思われていた時代に、ロックやフォーク好きにはありがちな長髪は胸あたりまで伸びていた。それに、うっすらとではあるけど、無精髭もほったらかし。しかも、学生服なんてダッセ〜と、学校に着ていったのは開襟シャツに黒のジーンズ。加えて、老け顔ってのもあったんだろう。カツアゲなんて一度もされたことはない。いわゆる、「関わり合いになりたくないタイプ」だったのかもしれない。さらには、学校をふけて近所の茶店でタバコを吹かし、仲間とミナミの法善寺横町あたりに出かけて安酒を飲んで大騒ぎをしたこともある。飲めもしない、味も適量もわからないってのに日本酒をがぶ飲みして、歩きながら、地面と平行にゲロを吐くなんてこともやった。どう考えても、不良ですわ。

1971年の筆者
17歳ぐらいの時かなぁ、すでに長髪でヒゲ面。背景はすでに姿を消した今宮高校の校舎で、正面に見える円形の屋根の上の方にあったのが映研の部室。そのロッカーにはなぜかウイスキーのボトルなんぞもあったような。

 そのせいかどうか、学校で仲が良かったのは、一見不良っぽく見えるスケバン系の女子たち。っても、実は、全然不良じゃなくて、個性的な、どこかで自分を主張している女の子たちなんだけど、そんな仲間と交換日記のようなノートを回していたような気恥ずかしい記憶が残っている。といっても、話題の中心は色恋ではなくて、深夜放送のことや音楽の話題が中心だったように思う。なぜか忘れられないのは、衝撃としか言いようのなかった友部正人の歌詞を書き写したこと。「昼頃目を覚ましあんたは、出かけてくる...」と始まる、10分以上の歌、「まるで正直のように」がそれだった。彼女たちに語りかけるというよりなにより、それまで耳にしたことのない言葉があふれ出るような、彼の歌をなんとか咀嚼しようとしていたんだろう。ひょっとして、物書きを生業とすることになったルーツは、そのあたりにあるのかもしれない。

1972年に発表された友部正人のデビュー・アルバム『大阪へやって来た』(URL-1022)と翌1973年に発表された2枚目『にんじん』。これはSMSから発表された1980年の再発盤(SM20-4139)で、右上のロゴやレコード番号の他はオリジナルを忠実に再現している。アルバム・タイトルは、どう見ても『おでん』ですわね。

 いずれにせよ、あの時代を象徴する漫画家のひとり、真崎守が描いた、高速道路を飛んでいるような金魚の絵が印象的なデビュー・アルバム『大阪へやって来た』から、続く2枚目、なぜか「おでん」という文字しか目立たないおっさんの写真がアップなのに、『にんじん』と名付けられたアルバムが、それから半世紀ほどを過ぎた今も宝物のような存在になっていく。そして、ことあるごとに思い出すのが後者に収録されている「乾杯」という曲だ。歌の背景にあるのは先鋭化した学生運動を象徴する連合赤軍が武装闘争を目指してたどり着いた事件だった。人里離れた山間部で軍事教練をやって、自己批判を強要する「総括」と称したリンチで数多くの仲間を殺害。警察の目を逃れてたどり着いた浅間山荘で人質を取って籠城したところを機動隊に包囲された様子が生中継されたことだった。

名曲です。聴いてみてください。友部正人の『乾杯』

 誰もがテレビにかじりついて正義感を振りかざしていた。でも、この歌に出てきたように「ついさっきは駅で腹を押さえて倒れていた労務者にはさわろうともしなかったくせに(人質の)泰子さんにだけはさわりたいらしい」という、焼き鳥屋での情景から「新聞はうすぎたない涙を高く積み上げ、今や正義の立て役者。見だしだけでもってる週刊誌。もっとでっかい活字はないものかと頭をかかえてる」というメディアの描写... そして、「結局その日の終わりにとりのこされたのは朝から晩までポカーンと口を開けてテレビを見ていたぼくぐらいのもの」という言葉の数々が自分自身と重なるようにも思えていた。たわいない正義感から社会的な問題や政治に向かい合ったこともある子供にとって、政治的なことより映画や音楽の方が遙かにリアリティを持って迫っていたんだろう。どんどんそんな世界にのめり込んでいくことになる。

 深夜放送を通じてまだアングラの域を出ていなかった国内のフォークやロックを聞くしかなかったのが、フォーク喫茶「ディラン」の常連となることで新しい音楽を発見していった。また、そこで生まれたのが学校とは無縁の「音楽」で繋がる友人や仲間たち。誰もが一癖も二癖もありそうなユニークな連中ばかりで、どう考えても普通に学校に行って大学を目指しているってタイプはいなかったように思える。すでに記憶が薄れているんだが、今でも鮮明に覚えているのは、後に屈指のギタリストとなるたこやきや、オレンジ・レコードというレーベルを立ち上げて、西岡恭蔵あたりのマネージメントをしていた源さんあたりかなぁ。その源さんと数十年のギャップを経て、一緒に飲んだときに「あん時の仲間で一番有名になったんちゃう?」と話題になったのが、ハリウッドでも活躍したスクリーミング・マッド・ジョージ。いつも奇天烈な化け物っぽいイラストを背中に描いたUSアーミー放出品のジャケットに下駄履きだった彼は、いつも数人の仲間とやって来ていたように記憶している。と思えば、イラスト付きの詩集を手作りしていた、なんと中学生の女の子とか。SNSのおかげで今も交流している彼らと親しくなったのは、福岡風太が主催していた春一番コンサート(通称、春一)のスタッフとなったことが一番の理由だろう。

You Tubeでみつかった春一の映像。1974年の記録で前半の中心は名作『悲しき夏バテ』を発表した故布谷文夫。中古市場で超高値を呼んでいたLPが2年前に初めてアナログで再発(UPJY-9150)されている。

 日本のフェスティヴァル文化の草分けは、ウッドストックよりもわずかに早く産声を上げた全日本フォーク・ジャンボリーに間違いない。が、1969年から3年でその歴史の幕を降ろしたことを考えると、最も長い歴史を誇るのが1971年のゴールデンウイークに天王寺野外音楽堂で始まった春一だろう。幾度かの休止を挟んでここ数年も断続的に開催されているこれに初めて行ったのは1972年だったと思う。その時の様子は、当時、確か、限定100セットという形で発表された10枚組のボックスセットに記録されるのだが、当然、手に入れるのは不可能。親から昼飯の小遣いをもらっても、メシを食わないで金を貯めて一月に1枚のレコードを買うのでさえ難しかった時代だ。というので、ディランでこれを聞くのが楽しみだった。特に圧倒的だったのははちみつぱいで、店で一緒に歌いながら、何度も何度もこれを聞いていたのを覚えている。

 おそらく、そのヴォランティア、いわゆるただ働きのスタッフとして加わったのは、その年からだったかなぁ。いつもディランに集合しては、いろいろなコンサートに出かけて、チラシを撒いたり。どこだったか覚えてはいないが、初来日したローラ・ニーロのコンサート会場で、チラシを配ったあと、メイン・スタッフにくっついていって、会場裏口からこっそりとなかに入ってライヴを見たなんて記憶もある。いや、あれはドノヴァンだったか? なにせ、すでに50年も昔のこと。記憶があいまいで、はっきりとはしない。いずれにせよ、会場の整理とか、なんでもやらされたように思うが、「働かされた」なんて感覚は皆無で、なにもかもが楽しくて、自分も一緒に春一を作っているんだという感覚の方が大きかった。

 開催当日は朝早く会場に出かけて、徹夜組の仲間と合流。「たまらんでぇ、朝早くなぁ、おかまの軍団が来てなぁ」なんて話もでてきて、大笑いしながら作業を始めていた。自分の記憶では、翌73年だったと思うんだが、「春一は商業主義や」とライヴの妨害をしようとしてやって来た連中と対峙したりってなこともあった。そんな騒ぎを聞きつけて、一升瓶を持ったおっちゃんが会場に入り込もうとするのを止めようとしたり、主催者の中心人物、福岡風太に「お前、配電盤のところを死守せぇ」と言われてへばりついたり... 仲間のスタッフがそんな連中と議論していて、「お前ら、日和ってるやないか」なんて言われて、「なん、ぬかしんとんねん、お前らや、日和ってんのは」なんて応えていたり... 日和るなんて言葉の意味も知らなかったのに、「そやそや」なんて口にしていたものだ。

1979年、春一番コンサートはその歴史に幕を下ろしたはずだった。これはその時の映像で、故西岡恭蔵がテーマ曲のように作った名曲「春一番」を仲間たちと演奏している様子が残っている。オリジナルは1974年に細野晴臣と一緒に作ったアルバム『街行き村行き』(OFL-21)に収録されている。

 それから数十年後、あの時春一を潰しに来たのが京都の憂歌団周辺だったなんて噂を聞いていたものだから、仲良くなった当時のマネージャーに「ほんと?」と尋ねたのことがある。

「ほんまや、俺らやってん」

「ほうでっか」と、笑い話になったけど、あの時は、けっこうドキドキしながら現場で走り回っていた。それがもう50年ほども前のことになる。それと同じようなことを、今でもフジロックで続けているとは... 人生とは、面白いもんだ。

 ちなみに、1972年の10枚組が鬼才エンジニア、吉野金次によってマスタリングされて、2006年にCD10枚組のボックスセットで再発されている。その一部として分厚い本のような形で残されている記録が、当時ここに加わった人たちの想いを雄弁に語りかけてくれる。ぜひ手にとってチェックしていただければと切に思う。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新です。 次回更新日は6月中旬予定。お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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