花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第6話 - 「自由」への目覚めが、音楽ジャンキーへの扉を開く | レコードCDの買取はレコードシティ買取センター【安心・簡単・全国対応】

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花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第6話 - 「自由」への目覚めが、音楽ジャンキーへの扉を開く

花房浩一|音楽ジャンキー酔狂伝

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第6話。
「自由」への目覚めが、音楽ジャンキーへの契機へと発展したことが今語られる!

「アンポハンタイ、アンポハンタイ!」

 なんの意味か全然わからんかったけど、ガキとも呼べない幼稚園児でさえもがこんな言葉を口にしていたのが1960年あたり。今で言うなら、流行語大賞ものだったんだろう。多くの人たちが「アンポ」、正確には日米安全保障条約に反対し、あの頃、国会を包囲したり、アメリカ合衆国大統領来日を阻止したりと、今では想像もできないほど大規模になった国民的な運動で繰り返されていたのがこのシュプレヒコールだった。簡単に言えば、独立しているはずの日本に対して、戦争に勝った連合国軍ではなく、アメリカが軍事基地から制空権も持つことができるという、まるで日本が植民地のような状態にされる条約が強行採決されたことに端を発している。10年で自動更新されるというので、その動きが再び活発になる70年前後には、人口比率で多数派だった学生や若い世代が世間を揺り動かしていた… っても、その時点でさえまだ中学生だった自分には、詳しいことはよ〜わからんかった。とはいっても、「変革」とか「革命」といった言葉に自分のなかのなにかが共振していたんだろうなぁ。大きな影響を受けていたように思う。

 今振り返れば、そのひとつが中学生の頃にやった人生初の「反乱」かもしれない。なぜか大阪深南部、南河内では中学生になると坊主頭というのが一般的で、あの頃は誰もそれを疑問に思わなかった。が、「ぶっさいくやなぁ」と思うと同時に、「なんでやねん?」って考え始めたら、全然理由が見当たらん。そんな理不尽なものに縛られるのは「嫌や!」と思い立って始めたのが反対運動だった。といっても、たったひとりの反乱。カーボン用紙を使って、手書きで「丸刈り反対」とわら半紙に書いて、教師にばれないように早朝登校して学校中に張りまくっていた。その主犯が自分だとばれた後は、自由化されるまで「髪は切りません」と実力行使宣言までしたんだが、「ええぞ、やれやれぇ」と言ってくれたのは少数派。ほとんどの生徒たちにはどうでもよかったようで、結局、学校で自分が浮きまくることになる。しかも、あの時は校長に言いくるめられて、「民主主義ってのはねぇ、花房君」なんて説教され、悔しい思いをした記憶があるが、その内容はあまり覚えてはいない。

 「バラ色の未来」が待ち受けているとまでは言えなくても、どこかで未来という言葉にワクワクすることができた時代だった。「キューバ危機」「ヴェトナム戦争」に象徴される東西冷戦もあったし、大人だったら、また違った見方や感じ方もあったのかもしれないけど、戦後10年で生を受け、真新しいテレビのブラウン管を通してではあったけど、小学校3年生で東京オリンピックを体験した自分の世代にとって、どこかで輝かしい未来が待ち受けているように感じていたように思う。それを端的に見せてくれたのが、原子力で百万馬力の鉄腕アトムに代表されるSFアニメの数々かもしれない。そして、そんなSFの世界を現実に垣間見せてくれたのが、10代半ばで体験することになった1970年の大阪万博だったように思う。

花房浩一、中学生
大阪万博の時の写真...ではないようですが、その頃撮影されたのではないかと思える。まだぴちぴちの中学生時代。

 岡本太郎の「太陽の塔」や世界各国が様々なものを展示していたパビリオンのデザインは未来そのものだったし、そこにはテレビから抜け出してきたような外国があった。そもそも、一般的に外国人にに接することができたのも、おそらく、この時が初めてじゃなかったかな。実際、まだまだ国内に住んでいる外国人ってのが珍しくて、ただの観光客にさえ子供達が「サイン」をせがむなんていう、わけのわからんことも起きていたのを覚えている。といっても、当時の子供は日本人と外見上ほとんど変わらない韓国、中国といったアジア系を外国人とは見ていなかった。下手をすると、今でもそうかもしれないが、どこかでテレビを通して見ていた西洋系の人々を、差別用語とも思える「ガイジン」と呼んで、彼らの世界、特にアメリカにあこがれていたように思う。

 その頃、やたらもてはやされたのが「新しい」とか「ニュー」という言葉だった。今時そんなものを耳にしても「だから?」って反応が返ってきそうにも思えるし、「だっせぇ」と言われるかもしれないけど、あの頃はそこに言葉本来の「新しい」という意味が備わっていたのかもしれない。誰もが感じ取っていたのは「まだ体験したことのない」感覚や「未知」の世界とか、「古い世界や価値観を突き抜けた」ようなニュアンス。表層が少し変わった…ってのとは大違いで、なにやら多くの人たちが次元の違った世界へと導かれているのに気付いていたのかもしれない。やたらと「ニュー」なんとかって言葉が巷にあふれ出していた。そのひとつがニュー・シネマと呼ばれる低予算で作られた映画の数々。まずはそのあたりを媒介に、文字通り、新しい世界を仮想体験していくことになるのだ。

 その筆頭が、知らない人はいないだろう、キャプテン・アメリカとビリーが大型バイクでアメリカを横断するロード・ムーヴィ『イージー・ライダー』だった。ここでヒッピー文化の断片を知り、そんな動きを背景に生まれた新しい音楽を体験することになる。しかも、ここで垣間見えるのは学校を出て就職して社会人になっていくという当たり前の世界とは対極にある、自由な生き方。それまで映画は絵空事で、仮想世界のようなものだったというのに、現実としてそれが存在しうることを雄弁に物語ってくれたように思えていた。制服やネクタイなんてくそ食らえ。しきたりやルールともおさらばだ。既成概念や価値観から解き放たれて、自分にとって本当の価値を探し出そうよとでも語りかけられているような感覚に近かった。

 誰かに決めつけられたかのような男っぽさや女っぽさなんてイメージにとらわれることもない。「男は短髪で女は長髪」という既成概念が幅をきかせていたあの時代に、男が髪を伸ばすだけでも大きな意味を持っていた。今じゃぁ髪を伸ばそうが、スキンヘッドにしようが、どうでもいいんだろうが、あの当時、それは抵抗であり、自由への表現でもあったのだ。以前は作業ズボンだったジーンズに下着だったTシャツで街を歩くことがふつうになり、少なくともファッションやスタイルに関して言うなら、男らしさや女らしさなんてのがことごとく否定されていった。10代半ばの子供にそれがどこまで理解されたのかはわからない。でも、振り返ってみれば、あの映画を通して、なにより自由の意味をを考え、私が望むべき私であるかどうかを問いかけるようになっていったと思う。

 かつては映画のために音楽が作られていたのに対して、ここでは既存の曲や歌が使われていたというのも新しい動きだった。でも、興味深いのはどの曲もこの映画のために作られたかのような響きを持っていたこと。ここに収められていた音楽も映画も、実は、大きく変化していった世界を映し出す媒介であり、それが映画のなかで相乗効果を生み出していたんだろう。後に同じような手法が、アメリカの大学紛争を描いた『いちご白書』でも使われている。テーマ曲こそ、ネイティヴ・アメリカンのシンガー&ソングライター、バフィー・セント・メリーの『サークル・ゲーム』という歌だったけど、その他はほとんどがニール・ヤングが生み出した名曲の数々。ここで彼からクロスビー・スティルシュ・ナッシュ&ヤングといったバンドにのめり込み、前者でジミ・ヘンドリックスからザ・バーズ、ザ・バンドを好きになる。実に、映画を通して音楽は当時の子供達を魅了していくのだ。

ザ・バンドの名曲「ザ・ウェイト」のシーン。残念ながら、オリジナルのサウンドトラックでは、契約の関係で彼らのオリジナルを収録することができなくて、Smithと呼ばれるバンドがカバーしたものが使われていた。

 音楽ジャンキーへの入り口として決定的な影響を与えたのは『ウッドストック』。当初、20万人ぐらいが集まってくるだろうと想定して開催したというのに、なんとその倍の40万人が集まってきたというロック・フェスティヴァルの記録映画が衝撃だった。といっても、これを後に『ブラック・レイン』という映画で姿を見せたキリン・プラザの前身、戎橋劇場で見たときは、出演していたバンドやアーティストの知識なんてほぼ皆無。それでもギター一本にパーカッションをバックにたたみ掛けるように歌い続けたリッチー・ヘヴンスサンタナ、スライ&ザ・ファミリーストーン、ジョー・コッカー、ザ・フーなんぞに圧倒されていくのだ。

ウッドストックを象徴するリッチー・ヘヴンスの映像

 が、なにに最も感動したのかと問われれば、演奏そのものではなかった。サンタナが演奏した前か後か、いきなり降り出した雨にオーディエンスが祈るように「ノーレイン」と歌いだしたところやみんながすっぽんぽんで池か川に入って水浴びするシーンもドキドキしながら見ていた。が、圧倒的だったのは音楽のために集まってきた数十万人を空から捕らえたシーン。ここで涙腺が緩むような刺激を受けていた。それは、たかだか音楽が全米からこれほどまでの人々を集めたという奇跡への、あるいは、音楽を中心とした文化がそれを可能にするとてつもない影響力を持っていることへの感動だったのかもしれない。が、いずれにせよ、それが後の人生に大きな影響を与えることになる。

いきなりの雨に、「雨を止めようぜ」と声をかけるMC、そして、オーディエンスの声がまるで音楽のように聞こえるのが面白い。

 あれからほぼ半世紀が過ぎ、もはやニュー・シネマもウッドストックも歴史上の記録でしかないのかもしれない。それでも見るたびに新しい発見をする映画『イージー・ライダー』の魅力は全く色あせることはない。しかも、初めてこれを見てから20年ほどの時を経て発見したのは、この映画を作ったスタッフのひとりが、イギリスで兄弟のような存在になった友人の母親であったこと。そして、その息子と一緒に過去四半世紀にわたって関わっているのが、フジ・ロック・フェスティヴァルだという摩訶不思議。なにやらすべてがどこかで繋がっているような… 人生とは実に面白い。

 


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月第2・第4月曜日に更新です。次回もお楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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