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花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第5話 - ラジオを抱えてニューロックに

花房浩一 音楽ジャンキー酔狂伝

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第5話。
ラジオを抱えた音楽ジャンキーを虜にした「ニュー・ロック」とは一体?

「おかぁちゃん、静かにしててや! 音、出さんといて。これから録音するんや」

 今思い起こせば、「アホやなぁ」と思う。でも、カセットテープ・レコーダーという代物が普及しかけた1960年代終わりから70年代頭、そんな光景が日本中で見られたに違いない。この頃、まだ10代そこそこだった世代の仲間にこの話をすると、「俺もやった、やった。クックックック」と笑い出すのだ。なぜかというと、その当時発売されていたカセットテープ・レコーダーにはマイクがついていて、それでなにかを録音するというのがふつうだったのよ。ライン入力を使って録音できる高級なものもあったのかもしれんが、底辺労働者の貧乏家族にはそんなのは無縁。加えて、実際に最初からそういったものがあったのかどうか... 皆目見当もつかん。なにせ子供にはそんな知識なんてからっけつだったもんな。

音楽ジャンキー、ラジオを録音

 それはともかく、お気に入りの番組が始まるとラジオのスピーカーの前にマイクを立てて、外部の音が一切入ってこないように神経を使い、息を殺して録音するのだ。おそらく、雑音を遮るには全く効果はなかったんだろうが、布団をかぶって録音した... なんてこともあった。想像するだけで、爆笑ものだが、子供達にとってみれば、真剣そのもの。なにせ、家にはステレオもなければ、当然、レコードもない。そんな贅沢品が日常生活に入り込むのは、まだ数年先のこと。それでも、こうすることで音楽を自分のものにできる。好きなときに好きな音楽を聴くことができるようになる。ふつうにラジオで音楽を聞いているだけの少年をジャンキーに成長させるには、これがもってこいのおもちゃとなるのだ。

 おそらく、すでに死語となってしまった「エアー・チェック」という言葉が、誕生したのは、このしばらく後じゃないかなぁ。今なら「空気読めよ」って意味? なんて響きを感じるかもしれんが、ラジオで放送される音楽や番組を録音することをそう呼び始めていた。きっかけは1970年前後のFM放送開始だろう。それまでのAMラジオとは違ってステレオ放送がベースで音質も格段によかったことから、音楽を聴くのはFMに限るといった風潮も生まれていた。それに拍車をかけるように番組表から注目のアーティストにレコード、オーディオ機器などの情報を満載したFM情報誌が登場。いわゆる高度経済成長の波に乗って、三種の神器と呼ばれる家電(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)が行き渡り、手を伸ばせば届くかもしれない、ちょいと贅沢なオーディオ関連機器の広告満載のこんな雑誌を見ながら、録音マニアが生まれてくるのだ。

 さすがにNHKFMが先行していたのは当然なんだろうけど、そっちの記憶はほぼ皆無。番組がつまらなかったからかしらん。その一方でよく聞いていたのは関西で最も影響力を持つことになったFM大阪だった。深夜のお気に入りは「ジェット・ストリーム」。スポンサーはJALで、ジェット飛行機が離陸するかのような効果音と共に、フランク・プゥルセル・グランド・オーケストラによる「ミスター・ロンリー」が流れだし、まるで空を飛んでいるかのような情景を描く城達也のナレーションが始まる。飛行機に乗るなんて夢のまた夢だった時代に、そんな海外への想いをかき立ててくれたのがこの番組だ。といっても、放送される曲が勉強の邪魔にならないタイプが多かったというのが、愛聴していた理由かもしれん。

 なによりも愛して止まなかったのは、アルバムをまるまる1枚流してくれた「ビート・オン・プラザ」。夕方6時にヘビーなビートを刻むドラムスから、うねるようなグルーヴのベースとドラマチックなピアノで始まるテーマ曲、ポール・マッカートニーの「Momma Miss America」が流れ始めると「きたぁ〜」ってな気持ちになったものだ。その時点ですでに録音準備は完了。「こんばんわ、田中正美です」とディスク・ジョッキーの挨拶で番組が始まると、曲頭に合わせてがっちゃんと再生と録音のボタンを押し込んでいた。嬉しいのは、バンドや歌の解説などは、もちろんやってくれるんだが、曲を流している間、絶対に他の音やナレーションをかぶせないこと。要するに、高嶺の花だったレコードを買わなくても、アルバムを丸ごと1枚録音できることになる。


ザ・ビートルズのポール・マッカートニーのソロ・デビューアルバム「McCartney」、B面2曲目に収録されている名曲。

 おふくろが夕食の準備をしている台所の反対側に勉強机があって、その上にラジオがあったんだが、この時間だけはラジオを他の部屋に動かして、そのスピーカーからマイクで録音。ステレオ放送であっても、これじゃあ、その意味はないし、いくら雑音を避けても、なんだかんだと些細な生活音がテープに紛れ込むのは避けられない。それでもジミ・ヘンドリックスからジャニス・ジョプリン、レッド・ツェッペリンなど、当時、「ニューロック」と騒がれ始めたアーティストやバンドのアルバムを録音し、ものの見事にはまっていくのだ。

 なんで「ニュー・ロック」やねん? 今振り返れば、そんなフレーズやジャンルのような呼び方はレコード会社が生み出した戦略以外のなにものでもないってのは一目瞭然なんだが、そう呼ばれ始めた音楽には確かに新しいなにかがあった。それまでラジオから流れていたものはと言えば、ただ心地よいばかりのポップス。ヴォーカリストに加えてバックの音楽のアレンジやリズムにヴィジュアルまで、すべてが非の付け所もないように完成された商品のようなものかもしれない。その魅力を否定するつもりはさらさらないんだが、が〜んと頭をぶん殴られるような衝撃を感じたことはなかった。まるでなにかに覚醒させられるような感覚? あるいは、身体のみならず精神の奥深くを、文字通り、ロック、揺り動かし、揺さぶってくれるようななにか... それを感じさせてくれたのが「ニュー・ロック」だった。


当初、Chicago Transit Authorityと名乗ったシカゴが1969年に発表したデビュー・アルバムの巻頭を飾るナンバー、Introduction

 なかでも、自分を虜にしたのがシカゴだった。いきなり重厚なブラスが、堰を切った洪水のような勢いで飛び出してきて、グルーヴ感いっぱいの曲、「イントロダクション」で幕を開けるのが、当時は珍しかった2枚組のデビュー・アルバム『シカゴの軌跡』。中学校で初めて英語を勉強し始めたガキに歌の意味なんぞ想像すらできなかったはずなんだが、あらためてこの歌を聴き直すと、自分自身がこの歌の最期に描かれている通りになってしまっているのがわかる。

「これから、あんたを変革の渦のなかに引きずり込んでいく。がらりと気分も変えるから。
これまでとの違いを感じてほしい。期待してるよ、君が僕らに動かされるのを」

 と、今、歌詞を見ながら、自分流に訳してみたんだけど、初めて彼らを聴いたときにそれがわかっているわけはない。できることといえば、習い始めた英語でタイトルの意味をひもとき想像すること。おそらく、当時、アルバムから歌のタイトルを日本語化して売り出していたことや、それを元にしたラジオの解説も助けにはなったんだろう。歌そのものよりも、その後ろに広がる世界に引き込まれていったのかもしれない。「Does Anybody Really Know What Time It Is?」という曲に与えられたのは「いったい現実を把握している者はいるだろうか?」というタイトル。正確に訳すなら、「誰が本当に今、何時かわかってんの?」となるのだが、独特な邦題を付けることで、おぼろげながら、この歌が問いかけていることを想像してしまうのだ。アルバムの最終章(第4面)は「Prologue, August 29, 1968」から「Someday (August 29, 1968)」と繋がるんだが、前者は「1968年8月29日シカゴ、民主党大会」と題され、その時のデモに集まった群衆の騒音や「The whole world is watching(世界が見ている)」というシュプレヒコールが流れるなか、「流血の日」と名付けられた後者へと続いている。ここで彼らは「自分の周りを見渡してごらん。嫌悪と恐怖に溢れた顔ばかりじゃないか...」と問いかける。言葉の意味なんてわかるわけがないのに、それを感じている自分がいた。


シカゴ:Prologue, August 29, 1968〜 Someday (August 29, 1968)「1968年8月29日シカゴ、民主党大会〜流血の日」

 なぜこのバンドに魅せられたのか? さて、それがなにだったのか、いろいろな理由を後付けで探し出すことはできる。が、重要なのはそこじゃなかった。彼らの音楽にそれまでにはなかったなにかを「感じた」こと、少なくとも、音楽は消費されるだけの余興ではないなにかなんだというのが、自分のなかでわかったことが大きな意味を持つようになる。なにかを伝え、訴え、そんな気持ちを共有することができる媒体が音楽だったんだろう。彼らの音楽のことを知れば知るほどにそれを感じるようになっていた。

 音楽を聴き始めて、バンドのメンバーの名前を覚えようとしたのも最初だし、英語だというのに、歌を理解しようとしたのも初めて。バンドのロゴマークを油性インクのペンで紫色のランニングシャツの胸のあたりに大きく描いたりもした。そして、人生初のロック・コンサートが彼らの初来日となる。それがどれほどの衝撃だったかに関しては、また、次の機会にでも書いてみることにしようと思う。

 


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月第2・第4月曜日に更新です。

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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