音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第26話 - 音楽に恋をする瞬間がある。それが導くのは... | レコードCDの買取はレコードシティ買取センター【安心・簡単・全国対応】

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音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第26話 - 音楽に恋をする瞬間がある。それが導くのは...

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10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の自伝的連載コラム、第26話は『音楽に恋をする瞬間』のお話かしらん。それがどこに転がっていくのか?

 なにやら恋に落ちるように、すと〜んとアルバムやアーティストに惚れ込んでしまうという体験をしたことが幾度もある。それまでだって、「いい作品だなぁ」と思って楽しんでいた... はずなんだが、そんな言葉では語ることができない、突き抜けたような魅力に引きずり込まれる瞬間に「出くわす」といった感じかもしれない。それが鮮明な記憶として残っている1枚がケニー・ランキンの『The Kenny Rankin Album』だった。

 あれは夏が終わって、秋の気配を感じ始めた頃かなぁ... 学生時代のたまり場となっていた喫茶店で、お気に入りのピザ・トーストに温かいコーヒーでリラックスしていたときだった。店の窓から見えるのは通称、運動公園、県立総合グランドに植えられている木々の数々。秋になると見事な紅葉を見せて、燃えるような紅葉の赤やいちょうの眩しい黄色に心を奪われる。その木々の向こうから陽の光がお店の中にさんさんと降り注がれていた午後だったと思う。店主がたまたまターンテーブルにのせていたこのアルバムに持っていかれることになる。

1977年に発表された名盤『The Kenny Rankin Album』(LD 1013)。英語を勉強してやっと定冠詞の意味がおぼろげにわかるようになる。このタイトルは「これこそがケニー・ランキンのアルバム」と語っているようなもの。

 巻頭を飾るのは...ハンク・ウイリアムスの名曲で「House Of Gold」。といっても、曲のタイトルだとか、オリジナルが誰なのかなんて、気にもかけてはいなかった。が、この歌が流れ始めて感じたのは、文字通り、黄金色の光の中に包み込まれていくような感覚。なんとも言えず幸せな気分になって、心が落ち着くのがわかる。シルクやヴェルヴェットを想わせるヴォーカルに、柔らかい空気の流れを生み出すようなアレンジをほどこしたオーケストラといった全てが心を癒やしてくれるのだ。至福の瞬間だった。このときから、このアルバムが宝物となって、彼の作品を集め出すと同時に、もっともっと深く知りたくなる。そして、知れば知るほどにその素晴らしさを発見していくのだ。

Kenny Rankinの3部作と言ってもいい傑作の数々。1974年の『Silver Morning』(LD 59651)から1975年の『Inside』(LD 1009)と『The Kenny Rankin Album』(LD 1013)。1972年に発表した『Like A Seed』(LD 1003)を含め、Little Davidから4枚のアルバムを発表している。

 アレンジャーはドン・コスタ。アルバムの裏に「1962年、初めてギター弦のセットを買ってくれたのがドンだった。それぞれ別の道を歩んできたんだが...」と記されている。デビューして間もない頃から繋がっていた二人が、それから10数年を経て一緒に作り上げたのがこの作品だった。しかも、オーケストラをバックに全ての曲を3日間の一発録りで記録。一度、このアルバムを手にとって耳を傾けていただければわかるはずなんだが、音のバランスからアレンジ、バックのミュージシャンによるツボを押さえたソロ、取り上げている曲... 聴けば聴くほど魅了されて、全てが完成されていると思えるようになっていた。

 この体験をしたのは、おそらく、すでにプロモーターを廃業して大学に復学していた頃ではなかったかと思う。その仕事を始めたのは大学に入って2年目か3年目で、結局、仕事が忙しくなって、実質的に休学していたのが4年目。あの1年はほとんど講義は受けてはいなかった。

 それでも、必修科目の『倫理学概論』だけは、毎年履修届を出していた。なにせ、この単位が取れないと卒業できない。というので、毎週金曜日の1限目に眠たい目をこすって講義室を目指すのだが、問題は「遅刻は欠席扱いとする」という教授の方針。毎年夏場ぐらいには挫折して、出席日数がたりなくなる。結局、留年して五度目の正直で、やっと単位を取ることできた。

 けっしてまじめな学生じゃなかったと思うんだが、振り返ると、3年目までに卒業に必要な単位はほとんど取っていた。加えて、教育実習を除けば、教員免許取得のための単位も完璧。この時点で卒業して、どう転ぶか... なにもわからなかったし、深く考えてもいなかったから、「とりあえず単位を取っておく」って発想がそうさせていたんだろう。なにを勉強したいか... それを考えてみようかって感じで選んだのが哲学科の哲学専攻。そんなものを勉強したところで、卒業後の仕事につながるわけはない。結局、教師ぐらいしかつぶしがきかないって感じか。いずれにせよ、日本の大学ってのは「入るのは難しいけど、出るのは簡単。なにやらそれを絵に描いたようなのが自分だったのかもしれない。5年目はのんびりと大学に通いながら、時間を潰していた。

 この頃の足となっていたのがダックスホンダと呼ばれる原付だった。岡山では車かバイクがないとどこに行くのも実に不便。特に、車での移動に慣れていたこともあって、自転車は考えなかった。その頃はまだヘルメットが義務化されていなかったこともあって、これが最も気軽な移動手段だった。

 といっても、ほぼ大学と下宿を往復するだけの生活。交通事故に遭うまではディスコのDJから飲み屋でバーテンダー修行のようなバイトもしていたんだが、しばらく入院した後も病院通いが続いて、仕事なんてできるわけがない。というので、数ヶ月は保険会社から「休業補償」を受け取っていた。たまたまプロモーターの仕事にバイトも重なっていたので、地味に生活していればなんの問題もない金額となっていたように思う。

1977年に発表されたTom Waitsの『Foreign Affairs(邦題:異国の出来事)』(7E-1117)。ジャケットに映っている女性に関して、当時、いろいろな噂が流れたけど、LAのクラブ、The Troubadourで働いていた女性なんだとか。

 プロモーター稼業から足を洗っても、いつも顔を出していたのが音楽好きが集まるたまり場で、大学の正門を出て突き当たった運動公園にそって少し南に下ったたりにあったミルクホールがそのひとつ。巻頭に記した体験をした喫茶店がそれで、ここで、同じようにはまったアーティストの作品にトム・ウェイツの『Foreign Affairs』があった。ちょいとジャズっぽいニュアンスを感じさせるこのシンガー&ソングライターに関していえば、デビュー・アルバムの『Closing Time』から大好きで、はまりにはまったのがジャズっぽさに磨きがかけられたようなセカンドの『The Heart Of Saturday Night』。そして、なんと全編ライヴで新曲を録音という2枚組『Nighthawks At The Diner』も気に入って、新しいアルバムが出ると必ず買うアーティストのひとりになっていた。

Tom Waits初期三枚のアルバム
シンガー&ソングライターからウエストコースト系の素晴らしいバンドの数々を教えてくれたAsylumレーベルから発表されたトム・ウェイツの初期3枚。1973年発表のデビュー・アルバム『Closing Time』(SD5061)から翌年の『The Heart Of Saturday Night』(7E-1015)に、2枚組ライヴ『Nighthawks At The Diner』(7E-2008)は全て宝物です。

 端っからつぶれたような声が魅力だったのだが、それが激しくなって、以前の作品を比較すると、「もうひとつだなぁ」と感じたのが4枚目の『Small Change』。そのせいか、続く5枚目『Foreign Affairs』はすぐには手を出していなかった。が、この店で、その魅力に気付かされることになる。なにやら最初の曲から映画を見ているような感覚に陥るこのアルバムで、特にはまるのが、ベット・ミドラーとのデュエット「I Never Talk To Strangers」だった。どうやら、フランシス・コッポラも同じように感じたんだろう。この1曲をベースに映画『One From The Heart』が生まれたなんて逸話を耳にしたことがある。それは1982年に公開された作品で、トム・ウェイツは音楽も担当しているんだが、そのずっと前から同じように彼のことを見ていたのがシルヴェスター・スタローンかもしれない。自ら書いた脚本で主演もして大ヒットした映画『ロッキー』の後、初めて彼が監督して主演もしたのが『パラダイス・アレイ』。1978年に公開されたこの映画では安酒場でピアノの弾き語りをしているトムが姿を見せている。サントラには2曲を提供しているんだが、それを知ったのはずっと先のこと。なにやら、噛めば噛むほど味が出るするめのようなアーティストがこの人だった。

残念ながら、トム・ウェイツが演奏しているシーンは予告編には入ってはいない。まだまだ、無名の新人だったからだろう。映画の公開とサントラ『Paradise Alley』(MCA-5100)がリリースされたのは1978年。

 同じようにここでジャクソン・ブラウンにはまっている。オンタイムのアルバムは1976年作の『The Pretender』から続く『Running On Empty』。そこからさかのぼって『Late For The Sky』や『For Everyman』もよく聴いたものだ。常連の仲間もいろんなレコードを持ち込んで、「あ〜でもない、こ〜でもない」と音楽談義。岡山にはFMラジオ局もなかったからか、ほとんどラジオなんぞ聞いてはなかったのだが、ウエストコーストからAORの時代に出くわしたバンドやアーティスト、イーグルスからザ・ドゥビー・ブラザーズ、オーリアンズからネッド・ドヒニー、マイケル・フランクス、ニック・デカロあたりはこんな場所でお気に入りになっていった。

 エリック・クラプトンがボブ・マーリーとウェイラーズの「I Shot The Sheriff」をカバーして初めて全米No.1を記録して数年後だろか、友人がこの店にオリジナルが収録された『Burning』を持ってきたことがある。みんな、いろいろとアンテナを張って、雑誌なんぞで知った目新しいものに手を伸ばしていたんだろう。そんなのを一緒に聞きながら、「どう?」なんて会話が生まれるのだ。振り返れば、初めてレゲエと呼ばれる音楽を耳にしたのがこのときだ。もうその頃には「レギー」でも「レガエ」でもなく、「レゲエ」と呼ぶようになっていたかなぁ.... でも、「なんや、それ。変な音楽やなぁ」と口にしたのを覚えている。それから数年後に人生を変えるほどの衝撃を『体験』するレゲエが、あの頃は、とりわけ気にもならなかったというのが不思議でならない。

1969年に発表されたBrigitte Fontaine, Areski & The Art Ensemble Of Chicagoの傑作『Comme À La Radio』(SH 10006)の巻頭を飾るタイトル・トラック。これは衝撃でしたなぁ...

 友部正人の歌に「バルバラのシャンソンでも聴きながら」ってフレーズがあったというだけで、『Barbara chante Barbara』(B 77.806 L)を手にしたこともある。もうひとつのたまり場、ジャズ喫茶のイリミテのマスターもこれを気に入っていて、ブリジット・フォンテーヌと、フリージャズの世界で活躍していたアート・アンサンブル・オヴ・シカゴが生み出した名盤『Comme A La Radio(邦題:ラジオのように)』はここで教えてもらった。なぜジャズとシャンソン? さぁて、その理由はわからない。が、フランスのみならず、ヨーロッパでは、本場のアメリカ以上にジャズが評価され、ミュージシャンが敬意のまなざしで見られていたことも背景にあるのかもしれない。バルバラにさえ、ジャズを感じたのはそんな影響があったからかなぁ。余談だが、ジャズと浪曲や落語のファンが重なるという日本も同じようなものかもしれない。

 中学生の頃から高校と、英語は必須科目として勉強してきたので、大学で選んだ第一外国語はフランス語で、第二外国語はドイツ語。哲学の主流がドイツとフランスにあったというのもそれの理由だった。といっても、ドイツ語は文法がめちゃくちゃ面倒で、フランス語の方が勉強していて楽しかった。加えて、ジャン・ポール・サルトルに心酔していた助教授が気に入って、彼の講義も受けていたことから、フランス語の哲学書を読むなんてことをしていたのが信じられない。それでも、こと音楽に関する限り、シャンソンを聴いても「言葉」がほとんど聞こえてはこなかった一方で、英語は違った。「言葉」が聞こえてくるのだ。もちろん、どうやらニュアンスが伝わる感じでしかなかったかもしれないし、歌を理解していたかどうかは疑わしい。

「英語を勉強して、もっと理解したい」と、思い始めたのはこの頃だった。きっかけになったのはトム・ウェイツの3枚目。国内盤を買っていたので、歌詞カードはついている。だから、歌の内容は確認できるんだが、全てライヴ録音されたこのアルバムで、曲間に彼がなにを話しているのか... 聞き取れない。というので、自分はどれぐらい英語を理解できるんだろうと、英語演劇をやっていた仲間にアメリカ人を紹介してもらったこともあった。友人になりたいとかじゃなくて、ずいぶんと失礼な動機だったと思う。彼がそれをどう思ったか... なんて感じるどころか、まるでちんぷんかんぷん。彼が話していることなんぞ、皆目理解できず、自分の英語力の貧しさに呆れかえるのだ。

細野晴臣エキゾチカ三部作
通称、エキゾチカ三部作と呼ばれるのは、1975年に発表された『Tropical Dandy』(GW-4012)から、続く76年の『泰安洋行』(GW-4021)、そして、少し間を置いた78年にAlfaに移籍して発表した『Paraiso』(ALR-6003)の3枚の作品。

 日本を飛び出して、語学留学でもするか....なんぞと漠然と思うようにもなっていた。まだまだ海外は夢のような時代。それでも小田実の名作『なんでも見てやろう』にいたく影響も受けていたし、同じように、音楽からも刺激を受けていた。細野晴臣の、通称、トロピカル三部作『Tropical Dandy』に始まって『泰安洋行』から『はらいそ』やあがた森魚の『日本少年』あたりも、海の向こうへ憧れにも似た気持ちをたきつけてくれる。西岡恭蔵の3枚目のアルバム『ろっかばいまいべいびい』に収録されている「めりけんジョージ」という曲が、実は、三つのペンネームを持つ小説家、長谷川海太郎の作品、谷譲次の名で書かれた「めりけんじゃっぷ」シリーズにインスパイアされていることを知って、彼の作品をむさぼるように読んだこともある。『めりけんじゃっぷ商売往来』に『テキサス無宿』と『踊る地平線』と1920年代に海を渡ってアメリカに行った、彼の体験をベースにした小説が面白すぎた。

 この時、それが現実になるとまでは思ってはいなかったのに... なにやら、その方向けて確実に動き出していたような。さて、どう転んでいったのかは次回のお楽しみ。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新を目指しております。次回は6月中旬のはず...お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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