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音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第25話 - 音楽は真剣に聴くもの。踊るなんてとんでもねぇ!とな?

音楽ジャンキー酔狂伝24話

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の自伝的連載コラム、第25話は... 音楽は真剣に聴くもの。踊るなんてとんでもないって時代もあったというお話。

 ジャズ喫茶に行くと、会話は御法度で、ことりとも音を立ててはいけない... ってのが、普通だったのが1960〜70年代。今じゃそういったものが存在するのかどうかすら疑わしいし、おそらく、ないだろう。あったとしても、化石のように貴重な存在となっているのではないかと思う。それどころか、こんな言い方をしたらファンの方には失礼かもしれないが、この10数年か、ジャズなんぞBGMの定番になっているような気がしなくもない。けっこうお世話になるチェーン店の定食屋で、耳にするのがこの類い。あの時代から数十年を経て、そんな変化が訪れるなんぞ、露ほども想像ができなかった。

 ジャズのみならず、音楽は真剣に聴くものだというのが常識だった。「物音をたてる」と怒られたり、「出ていけ」と言われるようなことはなかったかもしれないが、ロック喫茶も似たようなものだった。家では爆音で聞くことができない音楽の魅力をジックリと堪能できるのがそんな場所。少なくとも70年代に関する限り、大騒ぎしながら、「遊ぶ」ようにレコードを「使う」発想は、ディスコが登場するまでほとんどなかったし、歌謡曲やそういったポップスに関して言えば、文字通り、軽いものとして「軽音楽」と呼ばれていたこともある。一方、「重音楽」なんて言葉は聞いたことがないんだが、少なくとも「ロックやジャズ、クラシック」は軽んじられるべきではないといった風潮が支配的だったように思う。加えて、そういった音楽を「意識」して「聴く」ようになったファンにとって、真剣に音楽を聞くことが不文律のようにさえ映っていた。

 岡山大学の正門そばにフォーク喫茶のような趣で生まれたペパーランドがオープンして、最初のアルバイト店員となった時、当時大好きだった渋いブルースのアルバムをよく流していたんだが、目を閉じて聴いているお客さんがいた。といっても、それはきわめて少数派で、そんなのを延々と繰り返してターンテーブルにのせていたことから、馘になったことは以前書き残した通り。いずれにせよ、こういった意識のあり方が「音楽鑑賞」なんて言葉を生み出したのかもしれない。数十年もお目にかかったことがないのだが、「履歴書」なるものには「趣味」を書く欄があって、そこに「音楽鑑賞」や「映画鑑賞」と記すのはごく自然なことだったように思える。

 音楽という文化が、酒場やパーティで生まれ、育っていったのが欧米。その一方で、そういった西洋の大衆音楽を輸入していった日本では、それが独自の土壌の上で「鑑賞する」ものとして育っていくことになる。例えば、コンサートの始まりは実に静かで、演奏中も息を殺すように演奏を「鑑賞する」のが一般的。座席を立って音楽を楽しむなんてあり得なかったし、そんなことをしようものなら警備員が走ってきて取り押さえられる。おそらく、今の若者には「まるで別世界」のように感じるかもしれないが、それが今のように変化し始めたのは80年代終わりから90年代初めあたりにすぎないのだ。

 そんな時代に育ったからだろう。そういった風潮の影響は、もちろん、受けているし、染みこんでいる。そのせいか、長い間、ダンス・ミュージックに対して違和感を持っていた。下手をすると、小馬鹿にしていたきらいもある。そんな傾向への決定打となったのが、ディスコでのDJ体験かもしれない。東京や大阪からは少し遅れて、地方都市の岡山にもディスコが生まれ、DJのバイトにありついていた。都会ではどうだったか知らないが、田舎では客が求める曲をかけるというのがDJの仕事。壁はほぼ全て鏡で、踊りにやって来たお客さんはそれを見ながら、決まり切ったパターンを練習するという感じ? なにやら盆踊りの延長線にディスコが存在するという風情だった。ときおり、けっこう気に入っていたEW&Fあたりを使ってみるんだが、全く受けない。定番と言えば、大ヒットしていたアラベスクの「ハロー・ミスター・モンキー」やボニーMの「怪僧ラスプーチン」あたり。ダンス・ミュージックはつまらない... と、思ったのがこの時か。その基盤を作っていたR&Bやソウル系と疎遠となり、そこにはまるのがずっと先になったのは、そんな背景もあるんだろう。

ま、懐かし!なこれが、ディスコで大ヒットしたArabesqueの「Hello Mr. Monkey」。これを流すと、集まっていたお客さんが全く同じ踊りを繰り返すという光景が日本中で見られていたんだろう。70年代後半はこんな感じだったのです。

 その頃、表町商店街の飲み屋、タウン・パブのブッキングをやることで、けっこう順調に続けていたのがプロモーター稼業。その噂をミュージシャン経由でかぎつけたのか、広島で同じようなことをやっていた小さな会社から連絡が入っていた。彼らがやるアーティストのライヴを岡山でもやってくれないか... というもので、断る理由もない。ブッキングも楽になるというので、それを受けるようになっていた。前回、書き残した高田渡や南正人の岡山でのライヴは彼らを通じて実現している。

浜田省吾
今では想像できないだろう、キャパが300人程度の岡山文化センターでライヴをやった後の写真だろう、浜田省吾を囲んで撮影されていた写真には、デュオでのライブで片腕だった町支寛二もいるし、背後にはマネージャーも。私は後ろの右側。まだ21歳ぐらいの時かな。

 それまではほぼ自分の趣味だけで企画して、ビジネス的なこと、いわゆる金儲けは二の次だったんだが、矢沢永吉のライヴなんぞをやってけっこうな利益を上げているという彼らの影響で、ちょいと色気を出したんだろう。それまでとは違った毛色のアーティストもやるようになっていった。といっても、下請けのような感じに過ぎない。そのひとりが、浜田省吾だった。けっこう地味な感じがしないでもないが、今でも魅力を感じるデビュー・アルバム『路地裏の少年』が泣かず飛ばすで、メジャー路線に舵を取ったセカンド『Love Train』の頃。キャパが300人程度の岡山文化センターのステージに、ベンチを置いて、大学構内か運動公園で拾い集めてきた枯葉を敷き詰めるという演出をしたものだ。

 この時は彼の昔からの仲間、町支寛二とのデュオでのライヴ。岡山の後、3台目の車、チェリーX1に彼らを乗せて、鳥取県倉吉市のフォーク喫茶を目指したこともあった。すでに名前は覚えてはいないんだが、それから40年ほどが過ぎて、たまたま通りがかったこの街で懐かしさから店を探し出したことがある。当時からのオーナーがたまたま居合わせて、少し言葉を交わしたんだが、「あぁ、あの時のローディの方?」と、ほとんど記憶には残っていなかったような。昔の面影はなくて、今では輸入雑貨のお店となっていた。それでも地元で細々と、当時から懇意だというアーティストのライヴを企画してやっていると伺っている。

和モノDJの間で裏面が人気のシングル『恋の西武新宿線(c/w)愛奴のテーマ』(SOLB307)。浜田省吾が在籍したバンド、愛奴の2枚目で、ジャケット裏にメンバーの写真が並べられている。当然だが、みなさん、若いねぇ。

 テレビ神奈川でファンキー・トマトという番組をやっていた時に、ゲスト出演した町支寛二と再会したんだが、彼に尋ねても当時の記憶は皆無。「そんなに昔のことは... 覚えてないです」と言われたものだ。そりゃぁ、そうだろう、旅を繰り返しているミュージシャンにとって、昔のライヴなんぞ、よほどのことがない限り記憶に残らないだろう。それは自分自身も同じ。挨拶をされても「誰でしたっけ?」と応えることが多々ある。年齢を重ねるとそれが日常茶飯事となるのだ。

 そう言えば、その番組でゲストで出演してくれた方に、他界した高橋幸宏がいる。この時、彼のマネージャーだったのが、プロモーター時代に浜田省吾のツアーをやっていた会社のヘッドで、話題になったのが彼の話。

「昔から大風呂敷を広げてました?」

 と言われたのには大笑い。確かにそんな感じだったなぁと記憶しているんだが、音楽業界で出会う人達にそのタイプは珍しくはないというのが実感かな。

 プロモーター稼業をしていた時、最後のライヴとなったのが久保田麻琴と夕焼け楽団だった。高校生だった大阪時代に、幾度か彼らのライヴを体験していて、そのデビュー作となる『久保田麻琴 Ⅱ サンセットギャング』に異様に惚れ込んでいたからだろうな。名盤『ハワイ・チャンプルー』から『ディキシー・フィーバー』を経て、『ラッキー・オールド・サン』の頃だというのに、あのアルバムのジャケットに使われている『ゴジラ』を使ってポスターを制作していた。

久保田麻琴と夕焼け楽団を岡山に呼んだのは、このしばらく後ではなかっただろうか。プロモーションで使ったのが1977年発表のアルバム『ラッキー・オールド・サン』。この時もらったラジオ宣伝用の45回転12インチは今も宝物だ

 あのライヴのしばらく前、プロモーションでマネージャーと岡山にやって来た久保田麻琴が「嬉しいなぁ、このポスター」と言ってくれたのが勲章かな。彼らに関する情報なんぞ皆無で、その存在なんぞ全く知られていなかった地方都市でのプロモーションはきつかった。それでも放送局にアプローチしてゲストで出演させたりと、必死に動きながら、友人たちに手売りも頼んでいた。

ジャケットを見ると久保田麻琴Ⅱとある『Sunset Gang』(3A-2002)。1973年発表の『まちぼうけ』に続く2枚目という意味なんだろう。インサートには夕焼け楽団というクレジットがある。これを使ってポスターを作ったのが懐かしい。

 事件が起きたのはその頃だった。倉敷のみならず、岡山県でちょっと尖った音楽ファンの間で圧倒的な影響力を持つレコード屋、グリーンハウスにチラシを届けた帰り道。今では旧道となっている国道2号線、川崎医大前の赤信号で停車しているとき、ちょっと暴走族的なパンチパーマの若者が運転するローレル1800に追突されるのだ。ほぼノーブレーキで自分の前とその前の計4台が巻き込まれる追突事故。首の後ろを押さえながら、ドアを開けると、玉突きした前の車の運転手が「てめぇ、この野郎」と叫んでいるのだが、言葉を発することができなくて、指を指しながら、「後ろのヤツだ」とポーズで示したのが記憶に残っている。

 事故の直後は、痛くもかゆくもなかったのだが、2日後に首が全く動かないという事態に直面。加えて、「むち打ち」の怖さを教えられて、入院することになる。それでも、自分の責任として、夕焼け楽団のライヴは開催している。しかも、照明会社のバイトをしていた流れで、この時、ピン・スポットを担当していたのはプロモーターの自分だった。ザ・バンドのロビー・ロバートソンの影響を受けまくっているであろう、井上ケン一がソロでギターを披露しているのに、サイド・ギターの藤田洋麻にスポットを当てていたなんてね。彼から指で「あっちだよ」とサインを送ってくれて、それに気付いたなんてこともある。

「なんで平日の、しかも、学生が忙しい時期にやるんだ?」

 あの頃、ずっと自分を助けてくれていた友人に言われたことがある。結局、自分がやっていることが仲間の負担となって、チケットの手売りとかで苦しめているのかもしれない。しかも、まともに金を稼ぐにはいたらず、いつもあっぷあっぷだった。このライヴの後、「すいません、全然チケットが売れなくて... ギャラを少しまけてくれませんか」とマネージャーに懇願しても、「ふざけんじゃないよ!」の一点張り。そりゃぁそうだろう、契約は契約。守るためにある。それに、アーテイストを守るのが彼らの仕事というので、借金してギャラを払ったのではなかったかな。っても、今は昔の話。詳細は記憶の彼方に消え失せている。

 もういいか... と思ったのは21歳の頃、大学4年の、一度も大学の授業を受けることもなかった年。「もう、終わりや」とプロモーター稼業から足を洗うのだ。そして、「少なくとも大学ぐらい卒業した方がいい」と復学していた。事故の後、廃車にせざるを得なくなった愛車、日産チェリーX1に関しては、損害賠償で程度のいい同一モデルを受け取り、それを弟に譲渡。4輪とはおさらばしてダックス・ホンダと呼ばれるバイクが足となっていた。

 こんな体験を通じて、大人の世界を知っていくことになる。入院している病院に加害者の少年が母親を連れてやって来て、示談書に同意を求めたときには驚いた。こちらはまだ入院しているのに「これで終わりにしましょう」と迫る。しかも、その書類を読むと、完全に赤信号で停止していたというのに、こちらが「急ブレーキを踏んだ」から事故が起きたと書かれている。もちろん、そんな示談書に判を押せるわけはなく、ぶち切れていた。入院は一月ぐらいだったかもしれないが、退院後も2年ほど通院を続けることになっていた。

 これで自分の音楽生活が幕を閉じる... と思いきや、新たな展開の始まりとなる。なんで、そうなったのかは、次回のお楽しみということで。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新です。次回もお楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

©︎Koichi Hanafusa 当コラムの内容・テキスト・画像等の無断転載・無断使用はお断りいたします。


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