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花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第11話 -

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第11話。「僕の前に道がある。僕の後に道はない!?」と、なにかに導かれているように音楽ジャンキーへの道が描かれていたのか?

「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」

 確かに、高村光太郎が詠んだ通りなんだろう。目の前は白紙で、自らの選択や判断で一歩踏み出すことによって、人間が形成されて、人生や生き方の軌跡が残る。それは、ずっと後に、ジョー・ストラマーが口にした「The future is unwritten(未来は描かれてはいない)」と同じようなものかもしれない。その一方で、1970年前後だったか、一世を風靡した漫画家、真崎守(まさきもり)がなにかの作品の一コマでそれとは全く逆のことを描いていた。

「僕の前に道がある。僕の後に道はない」

 さて、それも間違ってはいないのかもしれない。あの頃といえば、変革や革命を求めた60年代の想いが幻想に思えて、すべてがシステムに吸い込まれていったように映っていた時代だ。人間のみならず全てが大きな社会の駒として機能することで存在し、それを強固なものとするのがしきたりや教育。ひとりの人間の人生なんて決められていて、後にはなにも残らないといった虚無的な感情が若い世代に広まっていたようにも思える。その気持ちは理解できなくもない。

斎藤哲夫のアンダーグランドでの大ヒット「悩み多き者よ」のシングルが発表されたのは1970年2月。その曲を含むデビュー・アルバム『君は英雄なんかじゃない』(URG-4013)は、2年後の1972年6月に発表されている。この映像には英語で字幕が加えられているのが面白い。しかも、海外からの反応も記録されているのが嬉しい。

 とはいっても、無意識的であれ、意識的であれ、どこかで自分で判断して選んだ結果の蓄積が今の自分。それは間違いないだろう。その一方で、ひょっとして、そうなるべくしてなっていると感じなくもない。ともすれば、そのプロセスで生まれた偶然とも思える出来事の数々も、実は、あらかじめ作られていたものを引き寄せているにすぎないんじゃないだろうか... と、年齢を積み重ねてくると、そう思えるようになってきた。例えば、高校に向けた受験勉強の時にはまりにはまった深夜放送のラジオで、たまたま耳にして大好きになったアーティスト、斎藤哲夫。当時、彼のライヴを見た記憶はないのだが、それから30数年後にまるでたぐり寄せられるようにそれを体験する。しかも、友人が経営する、10人も入ればいっぱいになる小さなバーでの出来事だ。それが終わって、彼と面と向かってふつうに話をすることになるなんて、初めて彼の存在を知った中学生の自分には思いもよらなかったはず。

 さらには、後にオリジナル・ラヴとして脚光を浴びる田島貴男が働いていた渋谷のレコード屋でみつけたのが、1971年にURCから発表された彼のシングル「されど私の人生」のオリジナル。それを買って、当時、仕事をしていたTV番組『ファンキー・トマト』の生放送のために、銀座にあったSONYビルのスタジオに行くと、たまたまゲスト出演で楽屋にいたのがムーンライダーズの鈴木慶一だった。なにげに「いやぁ、さっき渋谷で買ってきたんですよ、このシングル」と、それを見せると、「あ、それ、僕のレコーディング・デビューです」と返ってくる。なんだろうこのタイミングは...と思いつつ、あれがきっかけになって、ずいぶんと打ち解けた雰囲気が楽屋で生まれていたものだ。

1971年2月に発表された斎藤哲夫の2枚目のシングル「されど私の人生は」(URT-0051)。はっぴいえんどと並ぶ伝説のバンド、はちみつぱいが生まれる前、その中心人物だった鈴木慶一が初めてレコーディングを体験したのがこのシングル「されど私の人生(c/w)われわれは」(URT-0051)。なんと吉田拓郎がこの曲をカバーしたんだそうな。

 そんなのただの偶然の連鎖じゃないかと言ってしまえば、それまでのこと。でも、その時々の判断がまるで絵に描いたような面白い流れを生み出し、なにやら導かれるようにそこに吸い込まれているようにも感じるのだ。おそらく、南河内の田舎に住むガキンチョが中学卒業を前に呼ばれたのがそんな流れだったんだろう。進学したのは、大都市、大阪のミナミ、難波から国道26号線をすこし下ったあたりにある今宮高校(通称、今高)。それがなかったら、自分がこれほどまでの音楽ジャンキーになることはなかったのではないかと想像する。

 子供の遊びのような坊主頭反対闘争を試みたとはいえ、成績優秀でテストの結果はいつもトップ5あたりをウロウロしていたのが中学時代。というので、いわゆる進学校を目指すのが当然とされた優等生.. だったんだろうな。当時の学区で選ぶとしたら、天王寺高校、三国ヶ丘高校あたりがベストで、私立は桃山学院高校(通称、ピン高)というのが相場。といっても、私学は無理に決まっている。なにせ底辺労働者のうちの親には金がない。公立にしか行かせてもらえないというので、進路指導の教師に「確実に進学できる」と言われた安全牌として選んだのが今宮高校だった。一応、試験を受けたピン高も楽勝で、今高は2番目の成績で合格。なにやら青臭いガリ勉君的風貌で入学したガキが、やたらませたピッピーのように変化していくこととなる波瀾万丈の高校生活が幕を開けることになる。

 入学当初は、中学時にやっていたバスケット・ボールをやろうと部活を始めるんだが、ここでアクシデントが待っていた。脂ぎった運動部の男子にありがちな、恥ずかしいとされる皮膚病、陰金田虫(いんきんたむし)に感染。当然のように、病院に行ったんだが、専門医じゃなかったのが災いしたんだろう。実に長引いた。しかも、「日本脳炎の予防注射」に関しての聞き間違いもあった。「打ってもいい」と聞いたはずなのに、実際は逆。結果、その副作用で世にもおぞましい光景を目にすることになる。なんと、おちんちんがまるでピンクの巨大な風船のようにぱんぱんに腫れて、針でも刺そうもんならピンク色の水が噴き出してきそうにも見えていた。普通に歩くこともままならず、部活どころの騒ぎではなくなったのだ。

 その頃はというと、洋楽のロックから日本のフォークへとはまりだした思春期の真っ盛りということもあったんだろう。体育会系はだっせぇという感覚も芽生えていたのかもしれない。というので、バスケット・ボール部は速攻でやめて、軽音あたりにも顔を出したような記憶がある。ロックをやっている男の子と話をしたら、「え、トランペットやってるの? だったら、ブラス・ロックだな」なんて言われたり。とはいっても、たかだか1.5オクターブ程度しか「音を出す」ことしかできないと、早々に諦めた自分が演奏できるわけはない。その線も消えて、なにがどう転んだのか、映画研究部なんてのに入ることになった。う〜ん、ひょっとしたら愛ちゃんと呼ばれていたかわいい女の子に誘われて、ホイホイとついていったのかもしれないが、直接のきっかけはな〜んも覚えてはいない。

すでに髭を生やしている生意気な高校2年生?ちょいとピンぼけですが、抱えているのはヤマハのフォーク・ギターですな。

 ちょうどその頃かなぁ、学校でクラスメイトの男の子(確か、橋本君というイケメン)が生ギターを手にして、岡林信康の「今日を越えて」を歌う光景を目にしたのは。「カッケ〜!」ってのが第一印象で、むくむくと「俺もやりたい」と思うようになる。もともと単純な人間なんだろう。アルバイトの金をはたいて買ったのがヤマハのF180だったと思う。初めて手にした楽器のトランペット同様、18,000円で売られていたと記憶しているんだが、定かではない。あの時は、音楽の知識皆無に加えて、音が大きくて、練習の場所もないというので、そうそうと諦めたのだが、ギターは学びやすかった。誰でも自分の歌を歌えるというフォークの流行もあって、本屋に行くと溢れていたのが初心者にもやさしいギター教則付きの音楽雑誌の数々。調べてみると60年代終わり頃からこういった雑誌が増えてきたようで、「新譜ジャーナル」や「ガッツ」に「ヤング・ギター」あたりにお世話になった気がする。

 今なら、簡単なチューナーってのがあるんだが、それが登場するのはまだ先の話で、当時は、Aの音、440Hzを出してくれる音叉を使ってチューニングするのが普通。その方法や簡単なコードをそういった雑誌で覚えてじゃら〜んと弾いてみると、実に楽しい。全くできなかったことができるようになるだけで有頂天になるのが初心者だ。どんどん楽しくなって深みにはまっていくことになる。「アルペジオに挑戦してみよう」なんて見出しにひかれて、五つの赤い風船のヒット曲「遠い世界に」を弾いてみると、「あ〜、こうゆうものなんか」となって、高田渡でフィンガー・ピッキングの面白さを発見。それがミシシッピー・ジョン・ハートという巨人から来ているのを知ったのも深夜放送だった。

非常にレアなミシシッピ・ジョン・ハートの映像。しかも、画質も素晴らしい。曲は「You Got To Walk That Lonesome Valley」。是非とも聴いていただきたいのは1972年に発表された名作「Last Sessions」かな。

 あの時のパーソナリティは高石友也。彼がどういったいきさつでミシシッピー・ジョン・ハートを紹介したのか、あるいは、どう語ったのか、全く覚えてはいない。が、親指でベース音を刻みながら、残りの指でメロディを聴かせる、カントリー・ブルースと呼ばれるギターのスタイルにのって聞こえてくる、やたらに優しい、聴くものを包み込んでしまうような歌声に、一瞬にして心を奪われていた。その時の衝撃をどう説明したらいいんだろう。当然のように、歌っている言葉はほとんどわからない。ただ、人種差別なんて当たり前の厳しい時代を生きてきたはずなのに、めちゃくちゃな優しさに包まれていたのが彼の声だった。

 その衝撃があまりに大きかったんだろう。とんでもない行動に出ていた。今も昔もこんなことはあり得ないだろうが、番組の途中、いきなり放送局に電話してスタジオにつないでもらって、こんなお願いをすることになる。

「今日の放送を聞いていて、ミシシッピー・ジョン・ハートに心を奪われてしまいました。でも、うちにはステレオがないんで、レコードなんて買えないんですが、カセット・テープを送るので、レコードを録音してくれませんか?」

 世間知らずの高校生? 間違いなくそうなんだろう。著作権のこともなにも知らない無知な子供だった。そんな無謀な電話、今の時代にあり得ないだろうし、誰にも相手にはされないと思う。でも、なぜかあの時、「このチャンスを逃したら、もう二度と彼の音楽を聞くことができないかもしれない」と必死になっていたのだ。

 そこで起きたのが奇跡だった。

「いいですよ、カセット送ってください」

 それがどれほど嬉しかったか、言うまでもないだろう。翌日、カセットテープを裸で封筒に入れて、返信用の切手代となる50円玉を入れて発送。その数日後には、確かに、レコードをダビングしたそのテープが手元に届いていた。確か、アルバムのタイトルは『The Immortal Mississippi John Hurt』という2枚組のベストもの。それこそ、テープが伸びてへたるほどにこのアルバムを聴きまくって、彼のようにギターを演奏したいと思うようになっていた。

 それから30数年後、テキサス州オースティンで毎年3月に開催されているSXSW(サウスバイ・サウス・ウェスト)というイヴェントに様々なスタイルで三味線を演奏するアーティストたちをプレゼンして、USツアーをしようという企画でMCをやらないかと誘ってくれたのが、アーティストでもあり、オルタナティヴな日本のプロモーターの草分け、麻田浩さんだった。その彼がいつだったか「実は、初めてアメリカに行った目的のひとつは、ミシシッピー・ジョン・ハートを見ることだった」と話してくれたことがある。

 面白いのは、あのツアーでニューヨークを訪ねたときの出来事だろう。彼が「ウッドストックに行かない?」というので、連れて行ってもらったとき、一緒に散策しながら町を紹介してくれたのがハッピー&アーティ・トラムの兄弟アーティスト。その彼らが1975年に発表した名作『Hard Times In The Country』というアルバムには、そのものずばり、「Mississippi John」というタイトルで彼に捧げる曲が録音されているのだ。

ハッピー&アーティ・トラム兄弟による名作『Hard Times In The Country』(Rounder Records 3007)に収録されている「Mississippi John」。オリジナルのギターのフレーズをふんだんに取り入れて、彼への愛とリスペクトを歌にしている名曲。このアルバムのジャケットで目に入るミシシッピー・ジョン・ハートの写真は名作『ラスト・セッションズ』のアルバム・ジャケットじゃないかな。。

 あの時には、ジョン・ハートのことが話題になったことはなかったんだが、それから数年の後、ハッピー・トラムがエイモス・ギャレットとのツアーで来日した時、なにかの拍子で彼のことが話題になっていた。

「不思議だよね、レイ・チャールズって音楽は大好きだけど、本人からそんなことは一切感じなかったし、真逆な感じがして全然好きになれなかった。でも、ミシシッピー・ジョン・ハートはあの音楽や歌で感じるまんまの人なんだよ。めちゃくちゃ優しくて素敵な人だった」

 と、話してくれたのは京都磔磔の楽屋裏。わずか15〜6歳の頃に深夜放送で一目惚れして、ずっと愛し続けるミシシッピー・ジョン・ハートで、ハッピー・トラムと、彼を招聘した麻田浩氏と取材でそこにいた自分が繋がっていたようにも感じていたものだ。これも「僕の前に道はある」って感じにも映る。なにやら、意識の底にある想いが見透かされて、得体の知れないなにかに導かれているように生きているようにさえ思えてしまうのだ。とりわけ音楽に関していえば、高校生だった頃に、それが顕著に表れてきた。なにかの力である方向に動かされていったように思う。それがなにだったかってのは、次回に続くのです。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新です。次回は波瀾万丈の高校生活が話題の中心かな。お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月間宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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