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音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第33話 - 言葉はコミュニケーションの道具。想いを伝えるのに歌のフレーズまで使ってしまうのだ。

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10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の自伝的連載コラム、第33話ではやたら金のかかるイギリスの煙草談義にコミュニケーションの道具としての言葉から、恋に落ちた女性を歌のフレーズで口説いたことなんぞを書き連ねてしまったのですな。

「最安で、一箱、15ポンドだよ。たまらんなぁ」

 と、イギリスでの煙草の値段に、目ん玉が飛び出るぐらいに驚かされたのは、昨年(2022)の6月末。コロナ絡みの海外渡航規制が緩やかになったことから、2年半ぶりに日本を飛び出して、1982年の初体験から40年目の節目となるフェスティヴァル、グラストンバリー取材を終えた後だった。その会場で見事にコロナに感染したのが私と仲間の2名。陽性の人間はフライトに搭乗できないというので、約10日間の滞在延長を余儀なくされたことがあった。35年ほどにもなるだろうか、一緒にこのフェスを取材している友人の写真家が、離日時に免税店で買った煙草を吸い尽くして、買わざるを得なくなった時に知った値段がそれだった。

 この年の春先から始まった急激な円安の進行で、この時点での1ポンドは約180円代後半と、おおむね煙草一箱の値段が3000円ちかいことになる。どこにでもある庶民向けの何の変哲もないカフェに入って、イングリッシュ・ブレックファストを頼んでも同じような値段。さらには、けっこうボロな安宿とされていたホテルでさえ1泊が150ポンド(約3万円)と、日本の経済力の衰えを感じざるを得なかったのが、久々のイギリスだった。

嫌煙運動のせいか、今ではほとんど姿を消した煙草ジャケットの数々。でも、昔はいっぱいあったのです。左からRickie Lee Jonesのデビュー・アルバム(P-10675W)、Donald Fagenの『The Nightfly』(P11264)、そして、Tom Waitsの2nd『The Heart Of Saturday Night』(P-10243Y)。『Rain Dogs』(ILPS 9803)を発表した頃、「煙草をやめたんだって?」とインタヴューでトム・ウエイツに尋ねると、あのしわがれ声で「Well... I'm smoking dreams now」なんて台詞が返ってきたものです。

 とは言え、煙草に関しては昔から高かった。1ポンドが580円あたりだったと記憶している1980年、最安が一箱70ペンス(略してP)弱と、400円ほどになる。記録をチェックしてみると、この年に世界で最も売れた煙草らしいハイライトが120円から150円へと値上げしているんだが、その倍を遙かに超えていた。飛行機や電車に乗っても、映画館に行っても、パブやカフェでも普通に煙草を吸えたのがあの時代。今振り返ると、にわかには信じられないかもしれないが、それは日本でも同じようなものだった。思うに、イギリスの地下鉄で喫煙が禁止されたきっかけとなったのは1987年のキングスクロス火災。それまでは、煙草をくわえて、なんと木製のエスカレーターで地下鉄のホーム向かうなんて珍しくもなかったのだ。

70年代始めに撮影されているんだろう、PYGの二人、ジュリーとショーケンが地下鉄で煙草を吸うシーンが今では衝撃的ですらある。丸ノ内線か?駅は新宿三丁目と見える。『もうひとつのヒーロー伝説 映像作家・佐藤輝の世界』からの映像と記されている。
 それはともかく、煙草の値段があまりに高いというので、フィルターが焼けちゃうんじゃないのと思えるほど、ぎりぎりまで吸うのがイギリスでは普通だった。というのに、まだ喫煙が可能だった時代のパブでよく見られた光景がほほえましい。仲間と飲んでいて、誰かが煙草を吸おうとすると、箱から1本飛び出すように差し出して「どう?」と勧めるのが礼儀だったのだが、さて、外でしか吸えなくなった今、そんな光景が残っているのかどうか。あれほどまでに値段が高いと無理だろうと思う。

 さらには、主流になっていたのは、あの当時、日本ではお目にかかれなかった手巻き煙草。単純にこちらの方が安いってのが理由で、フィルター付きよりずいぶんと長持ちする。それに、日本人からすれば、物珍しくて、なにやら「粋」に見えていたってのもあるかもしれない。というので、数ヶ月もすると、自分もそちらに移行。記憶では2種類しかなかったように思うが、一般的に人気のゴールデン・ヴァージニアよりも、ちょいと甘い香りがするオールド・ホルボーンを吸っていたと思う。

 それはさておき、語学学校での授業が面白いと思ったことはなかった。義務教育と高校で6年も勉強して、さらに大学では普通に英語の文献も読んでいたので、なんで基礎的な文法をやらなければいけないか理解に苦しんだものだ。とはいっても、クラス分けを前に筆記試験があって、あまりに成績がいいと上級クラスに入れられて、いきなり難しくなるので、適当に『間違い』を書いた方がいいというアドバイスをそのまま受け入れていたのが災いしたのかもしれない。といっても、読み書きはできても、うまく話せないし、なにを言っているのかわからないという状態からは抜け出せなかった。

 それを邪魔していたのが、当時の英語教育やそのプロセスで得た知識だった。簡単に言えば、勉強していたのは、コミュニケーションの道具としての言葉ではなく、受験で正しいとされる解答を書くための「科目」。テストで満点を取っていても、実生活では使い物にならない。逆に、そのおかげで、いちいち日本語で考えて英語に置き換えるパターンが染みついている。それがそもそも大間違いで邪魔になる。実を言えば、言葉を話すのに知識はいらないのだ。なにせ、そんなのとは無縁の幼い子供たちだって普通に言葉を話している。

 なによりも必要なのは、話したい、あるいは、知りたいといった欲求なんだと思う。それはどんな言語でも無関係。なによりも要となるのは意味を理解すること、あるいは、感じること。彼らが話すように話して、聞くように聞いて、それを真似すればいい。他の言葉に置き換えるなんてのは別の作業なのだ。といっても、それを体得したのはずっと先、この学校を終えてやったヒッチハイクの旅を待たなければいけなかった。

 一方で、日本人には簡単に過ぎる文法の授業の必要性は学校の本部がスイスにあることに起因しているのかもしれない。ほとんどの生徒がスイス人か、あるいは、周辺のヨーロッパ系だ。あの国の公用語はドイツ語、イタリア語、フランス語に日本ではなじみの薄いロマンシュ語と4種類。といっても、スイスのドイツ語は、ドイツで使われているそれとはかなり違った響きを持っているらしく、スイス国内でさえ地方によって大きな違いがあるんだとか。それを作ったのがそびえ立つスイス・アルプスに代表される山々。昔は交流が難しかったことから、そうなったと聞いたことがあるが、それがどこまで本当かはわからない。

スイスのどこかで映画を見た時、字幕にドイツ語、フランス語とイタリア語が同時に出てくるというのに驚かされたことがある。というので、そんな映像を探してみたら、これがヒット。といっても、これは独仏のみですが、映画『トランスフォーマー:ビースト覚醒』スイス向けの予告編とある。

 そんな多言語が公用語として使われているので、バイリンガルは普通で、3カ国語を話すトライリンガルも珍しくはない。また、イタリア語やフランス語はラテン語の一種で文法も似ているというので、同じルーツを持つスペイン語やポルトガル語も流ちょうに話す人が少なくはないのだ。一方で、ドイツ語には英語のルーツ的な要素も多々あるんだが、文法が複雑で、そのあたりを簡略化し成長した文法の基本を彼らが学ばないといけないなんて流れがあるんだろう。

 といっても、多言語に慣れているヨーロッパ系の人たちは飲み込みも早いし、あっという間に普通に話すようになる。日本人には苦手なrとlやsとsh、あるいは、thとsにvとbといった子音の発音の違いに関しても、彼らの言語に同じような発音がもともと存在するので聞き分けるのが苦にはならない。一方、遠く離れた極東で育まれ、西洋の言語とはほとんど接点を感じさせないほどの違いを持つのが日本語。しかも、世界的にはきわめてマイナーな言葉を話す日本人には、これを聞き分けるのが難しい。だからといって、数少ない日本人を念頭に置いた教え方なんぞ考えてはくれないのだ。そんな意味で言えば、若干の不利を感じざるを得なかった。

インド訛りの英語に関して語られている映像なんですが、インタヴューに応えて「これも正しい英語なんです」という方がいるのが面白い。それでいいと思うのは、私だけ?インドのみならず、いろいろな国の訛りがあってもいいじゃないか?

 加えて、それに拍車をかけていたのが国民性かもしれない。短絡的に「日本人的傾向」を決めつけるのは危ういと承知しつつ、答えに詰まると笑いでごまかしたり、逃げたりする日本人が目についたのは、後に、ブライトンでの短期コースを体験した時のこと。同じクラスの日本人がそれだった。どこかで、理解できなかったり、間違いを犯すのが「恥」とでも感じているのかもしれない。それに対して、西洋系のみならず、アラブ系の人たちは文法が間違っていようが、訛りを隠そうともしないで平然と話そうとする。が、それでいいのだ。どこの国の言語にも訛りがあり、独自の表現や言い回しがある。言い回しに間違いがあれば、指摘してくれるし、発音がわかりにくかったら、聞き直してくれる。語学学校ってのはそんなことを繰り返しながら、言葉を学んでいく場なのだ。

「Can I have a fire?」

 なんて、今、言われたら、「はぁ?」と、首をかしげるんだろうけど、煙草をくわえたクラスメイトのスイス人女性からそう言われたら、なにを求められているかなんて簡単に理解できる。単純に「煙草の火を貸してくれ」ってことなんだけど、それに応えて「I can give you a fire of love anytime」(愛の炎ならいつでも差し上げますよ)なんて口走った記憶がある。もちろん、彼女も周囲の仲間も大笑い。日本語同様、ドイツ語でも「火を貸してくれ」と言うから、それを直訳したんだろう。が、正しくは「Can I have a light?」。lightとは基本的には光なんだが、なぜか、英語ではこの場合にlightを使うのだ。おそらく、lighter(ライター)から来ているんだろうが、意味がわかれば、それで充分。そうやって言葉を覚えていくことになる。

追記:ザ・ドアーズの名曲「Light My Fire」からもわかるように、「火をつける」ってところが正しいんだろうね。

 そんなフレーズが口を突いて出てくるようになったのは、おそらく、大好きだったアメリカのシンガー&ソングライターたちの歌を通じて、いろいろなフレーズを覚えていったからなんだろう。実を言うと、前述の女性に恋をして、口説いたときに使ったのもジャクソン・ブラウンのアルバム『Running On Empty』に収録されている曲「Love Needs A Heart」の一部だった。

1977年に発表されたJackson Browneの名盤『Running On Empty』(6E-113)に収録されているのが「Love Needs A Heart」

「Maybe the hardest thing I've ever done was to walk from you」

 この時、この曲がなにを歌っていたかは理解してはいなかったんだが、曲の巻頭にでてくるフレーズは頭にこびりついていた。訳せば、「ひょっとして生涯で最も辛かったのは、君から離れていったことだった」とでもなるんだろう。それを拝借して、Maybe the hardest thing I'll ever do is to walk from youなんて言ったように思う。ほぼ3ヶ月のコースが終わりに近づいて、彼女は国に帰り、自分は旅を続ける... 出会いがあれば、別れもあるというので、多少センチメンタルな気分になっていたこともあるんだろう。

 あの決め台詞が効いたのかどうか、彼女とちょっとした恋仲になるのだが、あれからずいぶんと時が過ぎて、この歌が生まれた背景を知ることになる。これは、狂言自殺のつもりだったのに、本当に命を落としてしまったジャクソン・ブラウンの妻への想いが歌になっていたんだとか。そんなこと露知らず、学校が終わるとき、彼女との再会を約束していた。

 後に、その時のことを話したイギリス人の友人に教わったのはシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」にでてくるフレーズのひとつだった。

「Parting is such sweet sorrow, but I'll see you soon.」

 さて、これをどう訳せばいいんだろう。「再会するんだから、離ればなれになるのはちょっと甘い悲しさかもね」なんて、感じでいいんだろうか。でも、翻訳家でもなければ、日本語に訳す必要なんてない。その言葉の裏にある意味を理解すればそれでたりる。そんな「言葉の体験」を繰り返していたのがデヴォン州、トーキーでの毎日だった。

 コンピュータに始まってインターネットなんて夢どころか、空想さえできなかった1980年。当然のように、日本を離れてからというもの、「情報」からは完全に切り離された生活を送っていた。BBCを代表するイギリスのメディアが、遠く離れた日本のニュースを取り上げることなんぞほぼ皆無。日本を離れてからの数ヶ月は、日本で何が起きていたのか、全く知らなかった。そして、気にもならなくなる。メディアが取り上げるニュースなんぞ、本質的な生活や生き方にはなんの意味もないように思えていた。

 気になったニュースと言えば、イギリスへのフライトで経由した韓国で起きた光州事件や大学時代に学んで影響を受けた哲学者、ジャン・ポール・サルトルが他界したことぐらいかもしれない。それからしばらくして、彼のことを教えてくれた、そして、仲良くなった大学の助教授(後に教授になった)からハガキを受け取っている。すでにうろ覚えだが、彼はそこに「目の前で清らかな水が流れ去ったように感じる」と記していた。自分の生き方や人生に多大な影響を与えた誰かがこの世から去ることを、そう書いた彼が羨ましかった。この時点で、自分には「生き方」にまで影響を受けた人もいなかったし、それほどまでに思いを寄せた対象もいなかったようにも思える。

 それを感じることになるのは、それから数ヶ月後のこと。紆余曲折を経て、サセックスのブライトンで知り合って、後に家族のようになった仲間の家に居候をし始めたあの年の暮れ。1980年12月8日の朝、目覚めたときにBBCラジオから流れてきた、ジョン・レノン射殺のニュースではなかったか。あれ以来、クリスマスから正月に向けて、思い出すのがあの日の朝のこと。とりわけ、ビートルズのファンでもなければ、ジョン・レノンを愛していたわけでもない。が、あの事件を契機に、音楽が抱えるものの大切さを感じるようになっていく。それまでにどんないきさつがあったのか?それはこれからまた少しずつ書き残していくことになるだろう。

War Is Over If You Wanted. 来年こそは戦争のない平和な年にしたいと、去年もそう思った。いつまでそう願い続けないといけないんだろう。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新を目指しています。 が、いつも遅れて下旬になってます。申し訳ないです。次回こそは年が明けて2024年1月中旬に発表できるよう努力します。お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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