10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の自伝的連載コラム、第24話は、いきなりテレビ・ドラマ『前略おふくろ様』で幕を開ける。はまりにはまった倉本聰の作品から今も抜け出せないのだ。
「前略、おふくろ様」
と書き始めても、若い世代にはピンとこないだろうし、これがなにを示しているかを知る人はそう多くはないだろう。が、これはTVドラマ・シリーズのタイトル。今も愛して止まないこれが、どこかで、後の人生に大きな影響を与えてくれたように思う。
大学に入って最初の二年はわずか三畳の部屋を与えられた下宿住まいだったのが、卒業していった先輩が住んでいた四畳半に移って、なんとか手に入れたのがテレビ。今ではきわめて珍しい、いわゆる昭和レトロを絵に描いたようなモノクロのブラウン管を通して、時には仲間と一緒に、欠かさず見ていたのがこのドラマだった。井上尭之バンドのテーマ曲にのって、タイトルバックで使われていたのは寺島町奇譚で有名な、漫画家、滝田ゆうの描いた作品。猫の吹き出しに魚の骨の絵が顔を覗かせたりってな技法が新鮮で、当時でさえレトロと思われる昭和の風景や人々の生活がほのぼのとしたタッチで描かれていた。
「前略おふくろ様」のテーマ曲。YouTubeを探すとけっこうな頻度で実際のドラマ映像がみつかるが、アップと削除のいたちごっこが続いているような。これも人気のなせる技か? DVDやBlu-rayのセットもの等が現在でも入手可能です。
東京は深川の由緒ある料亭、分田上(わけたがみ)につとめるのが主人公、片島三郎。通称サブちゃんで、それを演じたのが、ショーケンこと、萩原健一だった。その数年前、グループサウンズ全盛期にザ・テンプターズの顔として一世を風靡した彼が、同じようにザ・タイガースそのものだった沢田研二(ジュリー)と一緒にヴォーカルを担当したバンド、PYG(ピッグ)を結成。歌謡曲ではなくロックをやりたかったらしいんだが、それを受け入れたロック・ファンはほとんどいなくて、あれが成功したとは言いがたい。そんなことも背景にあったのか、しばらくするとショーケンが音楽から少し距離を置いて、俳優としてのキャリアを積み始めていた。映画では神代辰巳監督の名作『青春の蹉跌』で成功し、テレビでは『太陽に吠えろ』でブレイク。『傷だらけの天使』で、いわゆる、ちょっと渋くてかっこいいイメージの役者として絶対的な人気を確立するのだ。
そんなイメージをひっくり返すようなキャラクターを与えたのが、脚本を担当した倉本聰だった。後に『北の国から』で圧倒的な視聴率を稼いで人気脚本家の仲間入りをするのだが、この『前略おふくろ様』が始まった頃、彼がそれほどヒットを飛ばしていたようには思えない。一方で、単発ドラマを放送していた東芝日曜劇場での作品の数々が好評で、めきめきと頭角を現していた。大滝秀治を交番のおまわりさんに仕立てた『うちのホンカン』や、故郷の地図を持って小樽に来たのに、混濁した記憶と老いに翻弄される老夫婦役を田中絹代と笠智衆が演じた『幻の町』といった傑作は同じような時期に生まれている。
そういった仕事で培ってきた倉本聰の全てが結晶のように輝いていたのが『前略おふくろ様』だった。語りがメインで映像ではわずかに姿を見せただけだったが、サブちゃんの「おふくろ」役として田中絹代を起用。桃井かおりを『恐怖の海ちゃん』と呼ばれる再従姉妹(はとこ)に当てている。大物役者や時代を象徴する俳優を突拍子もないキャラクターを持つ役どころに仕立て上げ、このシリーズで脚光を浴びることになったのが東映ヤクザ映画の端っこでチンピラの殺され役と相場が決まっていた大部屋俳優たち。厳つい面持ちの川谷拓三や室田日出男、志賀勝らが、「主役を食ってやる」という意味を込めて『ピラニア軍団』という集団を作っていたのだが、コミカルな演技で新境地を開拓した彼らが、ここで文字通りの展開を見せることになる。
このドラマを見ながら、倉本聰の着想や発想、物語作りに圧倒され、演出に心を奪われるのだ。音声が先行して会話のシーンに繋がると思ったら、その裏側でざわついている何気ない日常会話が背後の情景を浮き上がらせる。途切れ途切れの短い言葉が残す余韻や沈黙をも使ってなにかを語りかけようとしていた。そんな手法や技法だけではなく、居酒屋や喫茶店のシーンでなにげに使われている音楽にもそそられたものだ。マイケル・フランクスが聞こえてきたことに驚かされたり、毛嫌いしていた歌謡曲や演歌の魅力をこのドラマを通して再発見していくことになる。
まだまだビデオ・デッキなんて高嶺の花だった時代。超大型のVHSデッキを金持ちの先輩の家で目撃したことはあるけど、映像を記録するなんて発想を持つことさえなかった頃だ。というので、このドラマの音声をカセット・デッキで録音したこともあった。あれは室田日出男演じる、とび職、渡辺組の小頭、半妻さんが戦中の食べ物がなかった時代を回顧したシーン。なんと、腹が減って絵の具を食ったんだとか。この色は酸っぱかったとか、あの色は苦かったとか。音だけでドラマを聞いていると、想像力を刺激されてさらに映像が膨らんでいたようにも思えていた。
演劇部で活動していたことも理由なんだろう、『前略おふくろ様』の脚本集や『さらばテレビジョン』と題された倉本氏のエッセイ集を買って、むさぼるように読んでいた。根が単純にできているんだろう、その影響を受けて、実現できるかどうかなんて無関係に、ドラマの脚本を書いていたこともある。いうまでもなく、倉本氏の二番煎じ。彼が書いたのと同じように「ここでラジオから細野晴臣の『Hurricane Dorothy』が流れる...」なんてやっていたかもしれない。実に、脚本を読んでいると、そうした記述が出てくる。アーティストの名前は細野ではなく、ダウンタウン・ブギウギ・バンドではあったが。
そのドラマに熱中していた学生時代に最も長い間アルバイトをすることになったのが、運動公園の道路を挟んで北にあった喫茶店、不知火だった。売り上げのメインは昼の定食という、どこにでもあるタイプで、仕込みはママさんが担当。バイトの自分はそれを盛りつけて出すだけなんだが、飯炊きやらコーヒーを入れたりってのが主な仕事だった。嬉しかったのは賄い付きで、閉店するときに余ったご飯やコーヒーを持って帰ることができたこと。貧乏学生にはこれが大助かりだった。
その上か裏が学生向けのアパートで、その一室に人形のようにかわいいちょいと地黒の女子大生が住んでいて、彼女も店の手伝いをしていることから、時に転がり込んで飲むことがあった。そのボーイフレンドが哲学科の先輩で、かなりの腕のギタリスト。一度、東京に出てスタジオ・ミュージシャンのような仕事をしていたと聞いた記憶がある。それがうまく行かなくて岡山に戻ってきた彼が、ずっと後にこの地方のみならず、けっこう著名な古代ガラスやフレスコ画のアーティストとなっている。人生というのは実に面白い。
それはさておき、その彼が市内で最も人が集まる商店街にあるパブで演奏している... というところが発端となって、幸運がやって来る。プロモーターを始めてしばらくした頃、「花房君なぁ、そこの社長が会いたがってるんや。お店にミュージシャンを呼んでくれないかって」。これは嬉しかった。なんでも息子がイギリスに留学していて、彼を訪ねた時に味を占めたのがパブでのエンタテインメント。地元の人がピアノを演奏したり、バンド演奏もある。実はそういったところからパブ・ロックが生まれ、それがパンクを触発し... なんてことを知りようがなかった頃の話。その結果、社長と面会して毎月ここでライヴを開催できることになる。今で言うならば、小屋のブッキング担当へと発展していくことになる。
名盤『Typhoon Lady』を出した頃、ベイカーズショップをバックに記録されている映像。渡辺プロダクションがマネージメントをしていた記憶があるのだが、そんなところからこういったメジャー展開をしていたんだろうと察する。
で、振り返ってみる。確か、最初にやったのは塩次伸二バンドではなかったかと思う。京都の伝説、ウエスト・ロード・ブルース・バンドのギタリストのひとりで、75年に彼がバンドを脱退して目指していたのはジャズ・フュージョン。リー・リトナーからラリー・カールトン、あるいは、アール・クルーあたりが脚光を浴びる少し前だったと思うが、そんなサウンドを彷彿させる演奏にぶっ飛ばされていた。その他には、同じようなシーンから飛び出してきたファンキーなバンド、ダイナマイトのような迫力を持っていた大阪のバンド、スターキング・デリシャスのヴォーカルだった大上留利子がソロ・デビューした頃のライヴもやっている。バックは土井ベイカー正和を中心としたバンドで、この時のアルバム『タイフーン・レディー』(L-10090A)が高値を呼ぶ古典として騒がれるようになるとは... 想像もしていなかった。
ここで西岡恭蔵のライヴをやったときは...「今度はバンドで行こうと思うんや。まだ名前、 ないねんけど」という彼の言葉を受けて、それなら仕方がないと勝手に「西岡恭蔵とカリブの旋風(かぜ)」と名付けて宣伝を始めていた。「これでどない?」と、彼に尋ねると、「ええんちゃう」ってのが返事だった。面白いのは、その頃、京都の磔磔で録音された音源が『'77.9.9. 京都「磔磔」』というタイトルのアルバムで発表されているんだが、アーティスト名が西岡恭蔵とカリブの嵐となっていた。う〜ん、そのきっかけが自分にあったとしたら、嬉しいなぁと今でも思う。
日本フォーク史に残る伝説中の伝説といってもいいアーティスト、高田渡や南正人もここでやった記憶がある。当然のように、それからずっと先に、音楽ジャーナリストとして彼らと関わりを持つようになるなんてことは想像だにしてはいなかった。前者とは1993年に『渡』(TKCA-70074)というアルバムを発表したときに、宝島という雑誌でインタヴュー。「ウッディ・ガスリーのことを話させたら五月蠅いですよ」なんて会話が楽しかった。通称、ナミさんと呼ばれる後者とは2005年に出版された本『キープオン!南正人』のパーティを新宿のネイキッドロフトでやっているときに、たまたまその前を通りがかったことがきっかけで会話をしたことがある。
「覚えてます?一緒にツアーして、広島のプロモーターの家に泊まったときのこと」
なんて話したんだけど、全然覚えてはいなかった。海辺に宿泊した家があって、夜になって海岸に降りていったときのこと。「あれ、ナミ(南正人のニックネーム)さんは?」って感じで、彼が姿を消したことがある。すると、彼は水に浮きながら、海岸沿いを走る列車に向かって「夜汽車よ〜」なんて叫んでいた。そんなことを話したんだけど、すでに彼の記憶から消えていたような。で、その時に出版された本を見せてもらうんだが、そこに自分が書いた原稿が掲載されていることに驚かされる。
「これ、俺の原稿なんだけど、なんでここに使われてるの?」
それは1988年に八ヶ岳で反原発を訴えるフェスティヴァル「いのちの祭り」を取材して、月刊宝島に書いた原稿。言うまでもなく、彼もそこに出演していたのだが、それがそのまま使われているのだ。当然のように、そこに居合わせた出版社の担当者に詰め寄ることになる。彼らに言わせると、雑誌社から許可を得ているというんだが、著作者がそれを知らされてはいないってのが信じられなかった。
と、そんな事態に直面するのは学生だった頃から30年あたりを待たなければいけない。それまでにひと波乱もふた波乱も巻き起こることになる。さぁて、次はどんな話へと転がっていくやら...
レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新。次回更新日は23年4月中頃を目指します。お楽しみに!
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花房浩一
(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)
1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。
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