音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第23話 - ポンコツのN360で倉敷のレコ屋、グリーンハウスの常連に。ジャズ・フュージョンからAORにはまる。 | レコードCDの買取はレコードシティ買取センター【安心・簡単・全国対応】

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音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第23話 - ポンコツのN360で倉敷のレコ屋、グリーンハウスの常連に。ジャズ・フュージョンからAORにはまる。

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の自伝的連載コラム、第23話はポンコツのN360で通った倉敷のレコ屋、グリーンハウスからジャズ・フュージョン、そしてAORへと流れて行きます。

 高校生の頃に最も頻繁に通ったレコード屋が心斎橋の阪根楽器だった。ここに行けば、必ず未知の素晴らしい音楽に出会うことができる。大手のチェーン店だったら、こうなっていたかどうかわからないが、ここは、けっこう小さな、いわゆる専門店だったってのが、功を奏したのかしらん。仲良くなった店員がまるで友人のように、自分の趣味や嗜好を理解してくれるのがありがたかった。それに合わせて「これはどう?」って具合に薦めてくれたり、実際に聴かせてくれたり... そのおかげなんだろう、ここで買ったレコードのほぼ100%が生涯の宝物になって、今もレコード棚に顔を見せている。しかも、放置されているのではなく、ときおり引っ張り出してジックリと聴きたくなる名盤ばかり。おそらく、どれほど断捨離をしようと努力しても、ここで買ったレコードは手放すことができないだろう。

 大学に入って1年目の終わり、卒業していく先輩から、わずか5000円で手に入れたのが車検切れまで半年のホンダ、N360だった。これに乗り始めてから、同じような存在のレコード屋となったのが倉敷で1974年にオープンしたグリーンハウスだった。それ以前も電車で行ったような記憶もあるんだが、今のようにこぎれいなビルではなくて、「田舎やなぁ」と思わせる風情を持っていたのが倉敷の駅舎。外に出て前を走る(旧)2号線を越えたところから始まる商店街に入って、すぐに左に入ってしばらく行ったところに店があった。

(なお、グリーンハウスは昨年3月にほぼ半世紀の歴史に幕を下ろしている。3店舗ほどあったと思うんだが、働いていた店員が店を引き継ぎ、今は別の名前で営業されている。)

車好きだった親父も嬉しそうな表情で腰をかけているのは2台目の愛車、ホンダN360。これで岡山から東西南北へと走り回っていた。1976年の写真とある。

 倉敷には他にも魅力あるお店がいっぱいあって、商店街には映画監督がやっている店だと教えてもらったとんかつ屋、カッパによく出かけたものだ。今、ググってみても「映画」との絡みは全く目に入らなくて、行列が絶えない人気店、名代とんかつかっぱとしてしか語られてはいないけど、さて、あれは記憶違いなんだろうか。その商店街を抜ける手前にえびす饅頭と名付けた今川焼きを売っているお店があったり、今もレトロな雰囲気が魅力の喫茶店、ウエダがある。そこを抜けるとたどり着くのが昔の面影を持つ町並み。ここから有名な美観地区に出るのだが、その一角に、ちょっとインテリっぽさを感じさせる親父さんがやっていたイェナという喫茶店でのんびりするのが常だった。このお店はずっと昔に姿を消して、今では、すっかり観光地化されたのがこの地域。ここだけが浮いた「見世物のような」あるいは、「映画セット」のように「作られた」一角のように見えなくもない。あの当時はごく当たり前のように存在する町並みこそが倉敷の魅力だったように思うのだが、どこにでもある画一的な地方都市にここが飲み込まれてしまったような感慨を持つ。それを寂しいと思うのは、時代遅れなんだろうか。

 ツインキャブでバリバリ走ってくれた1台目のN360を廃車にして、鉄くずとして処分。その前に座席を取り出して、狭い下宿にソファのように設置したなんてこともあったのは、よほどこの車が気に入ったから? きっとそうだろう、2台目に買ったのも同じN360で、これに乗って国道2号線か、あるいは、新幹線沿いの道路を突っ走って倉敷に向かうのが常だった。おそらく、グリーンハウスへ頻繁に顔を出すようになったのは、プロモータを始めた頃からだったと思う。ポスターを貼らせてもらったり、フライヤーを置かせてもらったりもするし、当時は(ひょっとして今もか?)チケットも売ってくれていたように記憶している。お店を始めた御夫婦共に素晴らしい音楽への好奇心が旺盛で、「これがなぁ、でれぇええんじゃぁ(すごくいいんだ)」と方言丸出しでいろいろ教えてもらったものだ。岡山生まれで子供の頃に和気郡の叔母の家でお世話になっていたことから、自然に岡山弁を話すようになっていた自分も、「どねぇな(どんな)感じ?」とチェックして「ええがぁ〜」と応えていたような。

 ちなみに、大学には全国から学生が集まっていたこともあって、それほど方言が幅をきかせていたわけではない。関西方面からの人も多数派で、いわゆる大阪弁も珍しくはなかったし、いわゆる標準語を話す人も多かった。自分の場合は、基本的には大阪弁と岡山弁と標準語がごっちゃになっていた。ずっと後に知ることになるんだが、なにげに使っていた岡山弁も自分がベースを置いていた備前(岡山市内から岡山県東部)と備中(倉敷あたりから岡山県西部)では、多少違うようで、その微妙な違いは、どこかで神戸と大阪北部の関西弁の差に近かったような。なにやら... 神戸や倉敷にはどこか「文化的」で鼻が高いって感じかしらん。それに対し、岡山はどこかで野暮ったい... とまで言ったら語弊があるかもしれないけど、なにかそう思わせているものがあった。

 邦楽の世界では、いわゆる、ニューミュージックと呼ばれるものが全盛期を迎えていた時代。その一方で、洋楽に関して言えば、ウェストコーストからシンガー&ソングライターが騒がれた後、ジャズとロックやラテンからクラシックまでが融合(フューズ)するジャズ・フュージョンをへて、ちょっとジャズっぽいタッチを持つAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック=大人向けのロック)が気になりだしていたように思う。そんな流れに先行していたのが映画やTV番組のテーマ音楽なんだが、初めてその類いを耳にした時点で触発されたわけではないってのが、なんか不思議。例えば、60年代終わりから始まっていたアメリカのTVドラマ、「鬼警部アイアンサイド」のテーマ音楽を手がけていたのは、まだ30代そこそこの鬼才、クインシー・ジョーンズ。ほぼ同い年のラロ・シフリンがその少し前に「スパイ大作戦」のテーマを作ってヒットさせていたんだが、「レコードを買って聴く」という流れにはならなかった。

30代そこそこでこのトラックを生み出したクインシー・ジョーンズの才能にいち早く目をつけたのが、実は、フランク・シナトラだったというのが面白い。その頃から才能を開花させて、それが後にマイケル・ジャクソンとの一連の仕事に繋がっているのだ。

 前者は下世話な事件やニュースをネタに再現ドラマやパーソナリティの話術で視聴率の化け物となった「テレビ三面記事 ウイークエンダー」という番組で使われていて、「新聞によりますと...」というナレーションと共に使われたこれを知らない人はいなかったはず... そのテーマ曲としてこれがシングルで出ていたら、大ヒットだったんだろうが、どうやら、そうはならなかったようだ。記録を調べると、1972年に「鬼警部アイアンサイドのテーマ」としてシングルが発表され、翌年、安田南が日本語のヴォーカルをフィーチャーしたヴァージョンを発表。これが後に高値を呼ぶコレクターズ・アイテムとなっているにすぎない。実は、それを半年ほど前に大枚をはたいて買ってしまったのだ。

スパイ大作戦の7インチの数々
どれが本物?「スパイ大作戦のテーマ」として発表された3枚のシングル。オリジナルと言えるのは真ん中の1枚。これも日本語のナレーション入りなので、ちょっと異色ですね。

 一方で、後者は「スパイ大作戦のテーマ」として数種類のシングルが、あの当時に発表されているというのが紛らわしい。テレビ・シリーズで使われた、ラロ・シフリンのオリジナルはJET-1915という品番によるもの。「なお、このテープは自動的に消滅する」という、大平透による番組巻頭のナレーション付きで発表されているのに対して、ビッグ・ビート・スタジオ・オーケストラの名義で録音されたヴァージョン(UP-35)やザ・ヴェンチャーズによるカバー(LR-2511)もある。いずれのジャケットもアーティストではなく、番組の主人公たちが写っている写真で、かなり胡散臭い。ヒット曲をカバーして、「決定盤」といったうたい文句をつけて発売するというのが普通だった時代、こうやってレコードを売ろうとしたんだろう。いずれにせよ、曲のインパクトが強かったこともあって、数々のカヴァー・ヴァージョンを生み出し、ドラマの面白さも相まってトム・クルーズを起用した映画のリメイク・シリーズが大ヒットを記録しているのは、みなさんご存知のとおり。このあたりの音楽が後のアシッド・ジャズやDJたちに大きな影響を与えることになるのだが、振り返ってみるとこの頃、海外のみならず国内でもTVや映画を中心にスリリングな音楽が量産されていたのがよくわかる。

 この頃のたまり場はプロモーターをやっていたときの連絡先でもあった、岡大裏から理大に向かう坂の途中にあった七曜社という喫茶店。そして、その店主が運動公園脇、今、リーセントカルチャーホテルが立っている少し北に引っ越すような感じで始めたミルク・ホールという店だった。ここに集まる仲間とあ〜でもない、こ〜でもないと音楽談義をするのが日常で、その仲間と「今はこれじゃぁ」という音楽を探し出すようになっていた。そう言えば、そんなお店のひとつに、柳川交差点のそばにできた「Lazy Chicken」があった。東京から引っ越してきた方が始めていたんだが、あの当時一世を風靡した雑誌「Made In USA」の雰囲気満載で、ここにもよく足を運んだものだ。おそらく、リトル・フィートの代表作「Dixie Chicken」あたりから店名が生まれたんだろう。壁には彼らのジャケットで有名なネオン・パークを感じさせるアート作品が飾られていて、居心地がよかったように記憶している。が、このバンドに惚れ込んでいったのはずっと先のこと。もし、時期がずれていれば、いろいろな音楽談義を楽しむことができたように思うが、そうはならなかったのが残念だ。

ミルクホール
さて、いつの写真だろうか?すでにプロモーターを廃業した後か?いずれにせよ、国道53号線(今では国体筋と呼ばれているような)が運動公園の北端で西に曲がるのだが、その少し手前の道路沿いに店を構えていたたまり場、ミルクホールにて。真ん中が店主で右は大学の教授になってしまった仲間であります。

 その当時からちょいとジャズっぽい音楽が好きだったんだろう、ウエストコースト系でもとっぷりとはまったのはそんなニュアンスを感じさせるザ・ドゥービー・ブラザーズ。特にジェフ・バックスターやマイケル・マクドナルドが加わった時期が好きで、ドライヴするようなロックにジャズっぽいエッジを感じさせる『Takin' It To The Streets』(BS 2899)から続く『Livin' On The Fault Line』(BSK 3045)が自分には彼らのベストに映る。まぁ、昔からのファンには「あんたはドゥービーの魅力を全然わかっていない」なんて怒られそうだけど、人の好き好きなんて十人十色だからね。それに、ジ・オールマン・ブラザーズ・バンドが分裂したようなニュアンスも感じさせるシー・レヴェルにもはまっていた。ずっと先にまさかストーンズに加わるなんて想像もできなかったキーボードのチェック・リーヴェルが中心となって生み出したデビュー・アルバムと2枚目まではロック・ファンもジャズ・ファンもうならせる名盤だと思っている。

ザ・ドゥービー・ブラザーズの1977年のツアー時の映像。オリジナル・メンバーで独特にドライヴするロックっぽいサウンドを支えていたトム・ジョンストンが離れて、このあたりからAOR的なサウンドに変化していく。

 気に入ったアルバムに遭遇すると、ジックリとレコードを「見る」こと、そして「読む」ことになる。アルバム・ジャケットやクレジットの隅々までをチェックして、ミュージシャンやプロデューサーの名前を確認するのだ。すると発見するのが、お気に入りのアルバムに共通して出てくる名前の数々。例えば、ドゥービー・ブラザーズのほとんどのアルバムを手がけていたテッド・テンプルマンだ。同じ頃に発表されたリトル・フィートの『Time Loves A Hero』(BS 3015)を買って、なにやらドゥービーっぽいなぁと思ったら、彼の名前がプロデューサーとしてクレジットされている。なるほどねぇ... という感じだった。

 その他に気になった... というか、大好きになったのがトミー・リピューマ(英語的には、おそらく、リプーマと発音するはず)の作品の数々。おそらく、最初に手にしたのがマイケル・フランクスの名盤『The Art of Tea』(MS 2230)で、このアルバムで演奏しているミュージシャンの素晴らしさに惚れ込んで、それぞれの作品にまで手を伸ばすようになる。ちょいととんがっている感じのアルト・サックスで迫るのがデイヴィッド・サンボーンというので、ちょうど同じ頃に発表されたセルフ・タイトルのデビュー作(BS 2957)を買って、「う〜ん、バックでやっている方が魅力感じるなぁ」と思ってみたり、色気を感じさせるギターのラリー・カールトンに、リリカルなタッチを持つキーボード、ジョー・サンプルから、彼らがクルセダーズの中核だということを知って彼らのアルバムを聞き始めたり... こうやって音楽ジャンキーの深みにはまり込んでいくことになる。

マイケル・フランクスのメジャー・デビュー作『Art Of Tea』で、バックを支えているのはザ・クルセダーズでの中核となるメンバーたち。長くバンドとして活動していた彼らと双璧を成すようになるのが、同じように様々なアーティストのバックで活躍していた凄腕ミュージシャンが集まったスタッフというバンド。

 あるいは、この頃から気になり始めたことのひとつにレーベルもあった。ジャズ・フュージョン系でサウンドはもちろん、ジャケット・デザインにも独特の美学を感じさせたCTI。ご本人はそれほど好きではなかったという噂もどこかで読んだことがあるニーナ・シモンの『Baltimore』(CTI 7084)やチェット・ベイカーの『She Was Too Good To Me』(CTI 6050 S1)、アート・ファーマーの『Crawl Space』(CTI 7073)にラロ・シフリンの『Black Widow』(CTI 5000)やデオダートの『Prelude』(CTI 6021)などなど... 何枚のアルバムに手を出したことやら。また、復活したブルーノートから発表されたアコースティック・ギタリスト、アール・クルーの2枚目『Living Inside Your Love』(BN-LA667-G)も未だによく聞く一枚。その後発表された彼の作品からの曲が天気予報や高速道路情報のBGMに使われ始めて、友人曰く「スーパーマーケット・ミュージック」と揶揄されるようになるとは思ってもみなかった。

 こんなジャズ・フュージョン系のトラックがTVのコマーシャルで起用されるようになったのもこの頃か、あるいは、しばらく後だったと思う。渡辺貞夫の「カリフォルニア・シャワー」や「オレンジ・エキスプレス」に本田竹曠と峰厚介を核に結成されたネイティブ・サンによる「スーパー・サファリ」がちょっとしたヒットを記録しているはず。その予兆は、いわゆるブルースからR&B系のミュージシャンからも生まれていて、後に彼らを岡山に呼ぶようになるのだが、依然として中心となったのは少しアンダーグランドなフォーク、ブルース系のアーティストたちだった。

1978年発表、渡辺貞夫の『カルフォルニア・シャワー』から翌年の『モーニング・アイランド』に81年作『オレンジ・エクスプレス』あたりはTVCFで起用されたこともあって大ヒットを記録。バックを支えているのは、当時、USフュージョン・シーンの第一線で活躍していた強者たち。

 愛車、ホンダN360のおかげで行動範囲が広がったこともあるんだろう。いつだったか、なにかのライヴのポスターをいっぱいトランクに詰め込んだまま、国道2号線をすっ飛ばして京大西部講堂に向かったことがある。あがた森魚が初めてメガフォンをとった映画のデビュー作『僕は天使じゃないよ』の上映会とライヴが一緒になったイヴェントが開催された時だった。大阪のミナミが、いわゆる縄張りだった高校生の頃にも京都に行くことはほとんどなくて、地図を頼りに会場に到着。まだ時間があったので、近くの喫茶店のカウンターで一休みしていたとき、少し離れた席に静かに座っている友部正人が目に入ったことがある。この頃はまだ面識もなくて、どこか近寄りがたい空気を漂わせていたのがこの吟遊詩人。どこかで彼に「触れる」のが怖かったのかもしれない。当然のように、言葉を交わすことはなかった。それからずっと先に家を訪ねたり、一緒に飲んだりするとは思いもよらなかった。

 あの映画の後、打ち上げに顔を出すと、ゾウさんと呼んでいた西岡恭蔵やあの時代に最も影響力を持った関西の雑誌、プレイガイド・ジャーナルの編集者が顔を出していたのを覚えている。さて、どんな話をしたのか? ほとんど記憶にはない。ずっと後に、この編集者が自殺したことを知らされ、おそらく、それから何年か後に、同じように自ら命を絶ったのがゾウさんだった。あの時の光景ばかりが記憶にへばりついているのは、そんな偶然が理由かもしれない。

 その打ち上げの後、またN360をすっ飛ばして一路、岡山へ舞い戻る。普通なら、そのまま自宅に帰って寝てしまうんだろうけど、若かったんだろうなぁ。市内に入ると高校や大学近辺に出かけて、数十枚のポスターを校門のそばに貼り付ける仕事をこなしていた。自分にとっては、当たり前のこと。でも、当時の相棒には「俺はなぁ、お前みたいにスーパーマンちゃうねん」と言われて、その仕事バカぶりに呆れかえったんだろう、とっとと離れていった。結局、残ったのは自分ひとり。でも、この仕事が苦しいとか辛いなんて思ったことはなかった。まぁ、単純なんだろう。儲かることはほとんどなくて、損失をバイトで補填するのが当然のようにになっても、音楽と共に生きているのが楽しかった。それだけのこと。でも、捨てる神あれば、拾ってくれる神もある。本当は、そのあたりのことを今回書くつもりが... 前振りだけで終わってしまったような。次回は、絶対にそこにまでたどり着きます。お楽しみに。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新です。毎回遅れ気味の更新で申し訳ありませんが、次回は3月中旬を目指して頑張ります。お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

©︎Koichi Hanafusa 当コラムの内容・テキスト・画像等の無断転載・無断使用はお断りいたします。


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