10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第18話。さらば政治少年。ベクトルは外ではなく、内に向かう。深化する音楽ジャンキー症候群ってか?
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花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】
『政治少年死す』
と、いうのが、16歳の頃読んだ大江健三郎の小説『セヴンティーン』の続編に与えられたタイトルだったらしい。当時、詳しい事情は知らなかったんだが、先輩から「発売禁止になったんだけど、地下出版されたやつ、俺、持ってるから、貸したろか?」と、それを読んだ記憶だけは残っている。
(地下出版というのは聞き慣れない言葉なんだが、おそらく、レコードでいえば、海賊盤に近いものなんだろう。言うまでもなく、正式に出版されたものではない。)
大江健三郎の本を読んだきっかけは、10代半ばに最も影響を受けたアーティスト、岡林信康がセカンド・アルバムのタイトルに、大江氏の小説『見るまえに跳べ』を使っていたことが発端だ。でも、その作品ではなくて、なぜ『セヴンティーン』なのか? おそらく、たまたま『性的人間』と名付けられた文庫本のタイトルにひかれたんだろう。なにせ思春期の少年だ。今じゃ笑い話だけど、「性」という言葉だけでも充分そそられたと察する。ところが、その文庫本に収録されていたもう一遍に心を奪われていた。
作家、大江健三郎の著作からタイトルが付けられた岡林信康のアルバム『見るまえに跳べ』(URG-4001)。オリジナルは1970年6月発表。当時のファンが熱狂的に愛したのがA面最後の「私たちの望むものは」という曲だった。
簡単に言えば、自瀆にふける、背伸びした左翼かぶれの劣等生が、ひょんなことがきっかけで右翼少年になるという物語で、主人公のモデルになった... というよりは、おそらく、作品の着想を得たのが、1960年10月、日比谷公会堂で演説中の、日本社会党党首、浅沼稻次郎を刺殺した17歳の右翼少年。この本編が雑誌「文學界」に発表されたのは翌年1月で、わずかな時間をおいて、同誌で続編が掲載されている。ところが、出版元の文藝春秋社に届いたのが右翼団体からの脅迫状。同時期に、深沢七郎の小説『風流夢譚(ふうりゅうむたん)』を発表した出版社、中央公論社の社長宅が右翼少年に襲われ、家政婦が死亡するという事件が起きている。その影響でこの続編の単行本や文庫での出版が見送られたとある。
その裏事情を知ったのは、最近で、当時の情報確認のためいろいろ調べている過程でのこと。調べていけば、いろいろと興味深い話が出てくるかもしれないが、テロや脅迫に屈して出版社から気骨が消え失せていったということなんだろうか。それにしても、興味深いのは、あの『政治少年死す』がまともに書籍として姿を見せたのが2018年だということ。『大江健三郎全小説』というシリーズの第三巻に収録と、オリジナルが発表されてから半世紀以上が過ぎている。それほどまでに右翼の脅しが怖かったのか? というよりも、面倒なことには巻き込まれたくないという空気が出版界を包み込んだからだろう。同時に、政治少年のみならず、「政治運動的なるものが」死んだという感覚も支配的な時代の到来が、あの作品を忘却の彼方に追いやったのかもしれない。
それまでの反動なんだろうが、60年代終わりから70年代始めまで、日本のみならず世界中で学生を中心とした勢力が政治を揺り動かしていたのを知るのは、もう高齢者と呼ばれる人達だけかもしれない。フランスで学生を中心に5月革命が起こり、アメリカでは反人種差別から公民権運動からヴェトナム反戦運動が全米に拡大。もちろん、国内でも大学のみならず高校でさえ学生運動に襲われていた時期がある。おそらく、ほぼ全ての学生たちが否応なしにこの動きに巻き込まれ、同世代の多くがなにかしらの形で政治を意識せざるを得ない時代があったのだ。
主役となったのは終戦後まもなく生を受けたベビーブーム世代だった。全ての価値観が崩壊した終戦から、その後の混乱の時代に子供時代を過ごした彼らは、政治以前に旧態依然とした社会の価値観に対峙しなければいけなかった。だからこそ、経済や文化も絡まって新しい価値観を求める動きが様々な局面で突出してくるのだ。そのどれもが密接に絡み合っていた。50年代終わりのイギリスでは「怒れる若者たち」という文学界の動きが、キッチン・シンク映画と呼ばれる運動につながり、フランス映画界でも新しい波、ヌーヴェルヴァーグが生まれていた。その影響は、当然のように日本に波及。ずっと後に『戦場のメリークリスマス』で世界的な脚光を浴びた大島渚監督が『青春残酷物語』で松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手と呼ばれたこともあった。
映画化された、『怒れる若者たち』を代表する作家のひとり、アラン・シリトー原作の『The loneliness of the long distance runner〈邦題:長距離ランナーの孤独)』。1982年に英国ニューキャッスルで生まれたKitchenware Recordsのレーベル名はKitchen Sinkと呼ばれるUK映画界の運動に由来。代表的アーティストにプリファブ・スプラウトなど。
もちろん、音楽もそういった社会的な動きと切り離しては考えられなかった。音楽産業そのものが戦後、急速に発展したも背景にあるんだろう。性的なアピールも含みながら、ブラック・ミュージックをベースに登場したエルヴィス・プレスリーの登場は音楽界の革命だったし、当初から公民権運動を支えていたゴスペルからブルース、そして、R&Bにフォーク系アーティストが加わることで、社会的なメッセージを持つプロテスト・ソングが大きな役割を果たしていく。さらには、ヴェトナム反戦運動が激化していった頃には、サイケデリックからさらに攻撃的な、パンクの元祖のような音楽が次々と生まれ、そういった一連の動きが結集したウッドストックに代表されるように爆発的な影響力を放つようになるのだ。日本でも60年代終わりに新宿フォーク・ゲリラと呼ばれる音楽を核にしたアナーキーな抗議運動が生まれ、その流れも飲み込みながらアンダーグランドで成長した音楽を核にウッドストックにも似た全日本フォーク・ジャンボリーが産声を上げている。
後のパンクにも絶大な影響を与えたMC5。これは1970年、デトロイトでのライヴ映像。
が、その全てが70年あたりを境に様変わりしていった。アメリカでは象徴的存在だったジミ・ヘンドリックスが1970年9月に他界し、後を追うようにジャニス・ジョプリンやドアーズのジム・モリソンが亡くなっている。そして、イギリスでビートルズが正式に解散したのもその前年あたり。日本で言うなら、1969年に『わたしを断罪せよ』でデビューした岡林信康が政治社会的に影響力を持つフォーク界のカリスマ的存在となり、翌年『見るまえに跳べ』でさらに先鋭的になったと思ったら、1971年には『俺らいちぬけた』と、そんな世界に背を向けたようなタイトルのアルバムを発表している。この流れが時代の空気を見事に象徴していた。
戦後10年生まれの自分は、その端っこで断片を感じるだけの『遅れてきた世代』だった。当事者にはなり得なかった一方で、青臭い感性がそういったものにびしばしと反応していたんだろう。中学校の坊主頭反対運動で挫折しながらも、高校では制服廃止を実現させているのもどこかでそんな影響を受けていたからだと察する。「革命」や「異議なし!」なんて言葉が日常に溢れていた時代。どこかでそれがかっこいいなんて思っていた。
が、友部正人の名盤『にんじん』に収録されている「乾杯」で歌われているように、誰もがテレビに釘付けになった連合赤軍の『浅間山荘事件』をきっかけに、いわゆる学生運動なるものが一気に失速。大学の先輩には「あれでなぁ、日本中の学生が一斉蜂起する話もあったんやでぇ」なんて言われたこともあったけど、ただの妄想か、あるいは、大げさに話したがる関西人の「受け狙い」にしか映らなかったし、大学に入学した1974年、学内にはその痕跡しかなかった。
その前年あたりか、どこかの講義室が占拠されて、そこに助教授か誰かが絡んでいた... なんて噂は耳にしたことはあったが、「政治の季節」が終焉を迎えていたように映っていた。唯一、その片鱗を感じさせたのが、左翼を騙るマル青同、正式にはマルクス主義青年同盟という団体の動きだった。まるで右翼にしか見えない、軍服のような制服姿の彼らが学生を執拗に組織へオルグ(勧誘)していたと思ったら、学生寮を襲撃するという事件も起きていた。郵便局でバイトをしていたとき、その襲撃から命からがら逃れてきた寮生の友人が「あいつら、めちゃくちゃやで」と話していたのを昨日のことのように覚えている。その結果、学生ひとりが殺害されるという悲劇が起きていた。
ここに記されているのはWikipediaと同一で、どこまで真実かは不明。おそらく、そうなんだろうと察する。現場検証と称して大量の機動隊員が学内に送り込まれて、北津寮〈ほくしんりょう)を包囲したのをこの目で見ている。
「政治でなにが変わる?」
と、そう思うようになったのは、あの事件がきっかけだったかもしれない。「革命」や「変革」の響きに魅力を感じていた青臭い学生が、どこかで「反政治」的な方向に舵を取りだしていた。よりよい社会を目指すべきだという思いは変わらない。が、「政治的な権力」で本質的な変化なんぞ生まれるわけはない。それよりは、内なる変革こそが求められているんじゃないだろうかと考えるようになっていた。おそらく、あの激変の時代を生きた、団塊の世代を襲ったのは敗北感と挫折感ではなかったか。その一方で、遅れてきた世代の自分たちは、すでにほぼ無意識的に多少虚無感を伴う流れのなかに生きていたように思う。
まだ中学生の頃、最も影響を受けた... というよりは、入り口となったのがメッセージ性を持つフォークやロックだった。が、しばらくすると、それが内なるものを見つめるような音楽に変わっていた。それに拍車をかけたのは、訪米の模倣から始まって独自性を持つことで進化していった国内アーティストの作品の数々。とりわけ、『風街ろまん』で完成されたように思えていたはっぴいえんどのメンバーが発表していったソロ・アルバムが圧倒的だった。
わずか30分ほどで終わる大瀧詠一のセルフ・タイトル作から、細野晴臣の『Hosono House』に鈴木茂の『Band Wagon』はどれもが、手にした瞬間から傑作の輝きを放っていた。プロデューサーとして活動を始めた松本隆が発表したのは、詩とエッセイなどを集めた書籍「風のくわるてつと」。それが彼のソロ・デビュー作となるように思えたんだが、その頃、彼が手がけた南佳孝の『摩天楼のヒロイン』やあがた森魚の『噫無情(レ・ミゼラブル)』という作品も忘れてはいけない。
「昭和の子らよ、死合わせに眠くなれ」
『噫無情(レ・ミゼラブル)』に封入されていた小冊子には、そんなタイトルで始まる松本隆が書き下ろしたイントロダクションが加えられていた。
「〈昭和〉の揺籠(ゆりかご)は今、懶(ものう)げにきしんでいる。儚夢(ろまん)なき仮睡(まどろ)みの世代であるぼくたちがはじめて肌で感じる終末への予感の訪れだ」
さて、こう始まる文章にどんな意味が込められていたのか? あの頃も、そして、今でも正確に理解するのは容易ではないかもしれない。ただ、ここにアルバムの導入部以上のものを感じたのは少数派だろうか。なにやら、「ある時代の終わり」の向こうに広がる暗闇に仄かに見える光を求めて蠢く人達への讃歌のような響きを自分は感じていた。
高度経済成長が一段落したのがあの頃だった。かつてアンダーグランドだったフォークやポップスが広範な支持を受け始めて、歌謡曲との違いを際立たせるために「ニューミュージック」という造語が生まれていた。「新しい」というだけでもてはやされた時代。なんにでも「ニュー」を加えて、横文字にすれば、文字通り「新しい」魅力を感じさせて、「売る」ことができる。基本的には少し毛色の変わった歌謡曲〈ポップス〉の流れが「売れる」と判断した音楽業界がその波を作ったということなんだろう。その背後にいるのがハードウェアの会社。三種の神器と呼ばれた電気製品も普及し、余裕が生まれた家庭が欲したのはオーディオ関連という流れがあったのかもしれない。
が、売れまくったニューミュージックの表ではなく、裏で音を作っていた側に魅力を感じていた。後にキャラメル・ママやティン・パン・アレイを作った、細野晴臣周辺はずっと追いかけていたし、彼らが主力となって生まれた雪村いづみの『スーパー・ジェネレーション』やいしだあゆみの『アワー・コネクション』は発表された時に入手。同じように、大瀧詠一絡みで名前を知ることになる大貫妙子や山下達郎もそこに続く。結局、要となったのははっぴいえんど周辺のミュージシャンたち。彼らのラスト・コンサートを記録したアルバムが、その日付『1973/9/21』をジャケットに大きく記して赤盤と青盤で発表されているんだが、ここに収録されている南佳孝や吉田美奈子のデビューも驚きだった。
戦前から戦後と服部良一が生み出した名曲の数々を、雪村いづみをヴォーカリスト、演奏とアレンジを細野晴臣のキャラメル・ママ、弦楽器管楽器のアレンジャーに息子の服部克久を配して作られた、文字通り、世代を超えた傑作『スーパー・ジェネレーション』
一方で、彼らに影響を与えた海外の音楽にも吸い込まれていく。小坂忠とフォー・ジョー・ハーフあたりのむこう側に聞こえたのはカントリー・ロックからウェストコースト系の音楽。はっぴいえんどの源流となるバッファロー・スプリングフィールドからバーズといったバンドを作ったミュージシャンの作品を追いかけていったのは、もっと以前にさかのぼる。が、この頃はまりだしたのがシンガー&ソングライターの数々だった。ジェイムス・テイラーを皮切りにジャクソン・ブラウンやトム・ウェイツの魅力に取り憑かれるようになっていった。
「ねぇねぇ、これ、聞いた?」
音楽好きな友人や仲間と交わす会話は、いつもそんな言葉で始まっていた。
「聞いた聴いた。ええねぇ。でも、そのあたり好きやったら、これもええで」
と、互いに情報を交換して、好きな音楽の世界が広がっていく。まだまだ気軽にレコードを買える時代ではなかったこともあって、時にはレコードの貸し借りをするのも珍しくはなかった。それをカセットにダビングして楽しむことになる。
その頃、すでにラジオも聞かなくなっていたし、テレビでそういった音楽が取り上げられることはほぼ皆無。そんな音楽ファンにとって重要なのが音楽雑誌で、とりわけ気に入っていたのが『ニュー・ミュージック・マガジン』だった。のちに、「ニュー」が消えて、『ミュージック・マガジン』と呼ばれるようになったこれが情報源となっていた。端から端までむさぼるように読んで、気になるレコードを探し出す。特に嬉しかったのが日本中の輸入盤専門店が出している広告で、彼らが実際に試聴して選び出した「押しもの」をチェックするようになっていた。もちろん、それから数年後に、その雑誌がきっかけとなって音楽ジャーナリストへの道が開かれるようになるとは想像もしていなかった時代。おそらく、洋楽に関する限り、当時のレコード・コレクションのほとんどがこの雑誌の影響を受けたものだったように思う。
おそらく、女の子にしてみれば、退屈きわまりないかもしれないが、会話のほとんどは音楽のこと。それでも、「ニューミュージック」が同世代で大人気になっていたこともあったんだろう。おすすめのアルバムをカセットにダビングをしてあげたり、好き勝手なコンピレーションを作ったり... すると、「あのアルバムいい!」なんて反応が返ってくる。それが嬉しかったってのが発展して、今の仕事に結びついているのかもしれない。でも、惚れてしまうと、宝物のようにしていた自分のレコードをプレゼントしたなんてこともあった。そんな一枚が今じゃ高値で取引されるはっぴいえんどの『風街ろまん』のオリジナル。あの頃、レコードのオリジナル・プレスが財産になるなんて、思ってもみなかったから、結局、再発盤を買い直す。バカだねぇ、新品を買ってあげる方がいいに決まってるじゃねぇか... といっても、後の祭り。まぁ、大昔のことだから、それはそれでいいんだろう。
と、いよいよ音楽ジャンキー症候群が深化していったのがこの頃かな。でも、まだまだ、始まりなのですよ。
レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新。今月は若干の遅れが出ましたが、次回もお楽しみに!
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花房浩一
(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)
1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。
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