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花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第12話 - ついにステレオが我が家に届いて、人生初のレコード、はっぴいえんどの『ゆでめん』を購入

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第12話。ついにステレオが我が家に届いて、人生初のレコード、はっぴいえんどの『ゆでめん』を購入する。これが音楽ジャンキー人生幕開けの1枚となる。

 我が家に初めて姿を見せたオーディオ装置はパイオニア製の4chステレオ・セットだった。ターンテーブルとチューナー付きのレシーバーと呼ばれるアンプと、フロントに2本、背後に小さめの2本のスピーカーがセットになったもの。文字通り、前後左右のスピーカーという4方向から音が出てきて、その中に身を置くことができると謳われていたんだが、初めてのオーディオ・セットだったので、それがどれだけ新しく特別なのかは全然わからなかった。

 当時の主流は、まるで家具のような趣を見せた木製の高級なタイプじゃなかったかと思うが、おそらく、これはその廉価版として発売されたセパレート・タイプだったんだろう。そのものの写真は残ってはいないんだが、親父が撮影してくれたんだろう、嬉しそうにはっぴいえんどのセカンド・アルバム『風街ろまん』を見せているピンぼけ写真の背後にそれがわずかに顔を見せている。おそらく、このステレオ・ラックもセットで売られていたようで、そこにレコードを収納することができるという作りだった。

よほど嬉しかったんだろう、はっぴいえんどの名作『風街ろまん』を手に弟と記念撮影... と言っても、かなりのピンぼけですが。バックに見えるのはTレックスのポスターかしら?っても、ほとんど記憶にはない。ちなみに、この時に手にしているのは1700円で発売されていたオリジナル(URG-4009)なんだが、あまりに好きで、後に惚れた女の子にプレゼントしてしまった。もちろん、買い直しているんだが、それは東宝レコードから再発物(UX-8005)となる。

 音楽なんぞに興味を示したことのない親父が、なにを思ってこれを買ってくれたのか? ひょっとすると、高校に無事入学できたことへの褒美として自分がせがんだのかもしれない。そうであったような、そうでなかったような、どうもはっきりとしない。一方、ステレオが届いてしばらくすると、彼が『沖縄を返せ!』というタイトルのLPを聞いているのを見た記憶がかすかに残っていて、ひょっとして労働組合運動に没頭していた彼もデモや集会に向けて自分を鼓舞するような音楽を聞きたかったのかもしれない。といっても、彼が幾度もレコードを聴いていた様子を目撃したことはなくて、しばらくすると、ほとんど自分のものになっていた。

 これをきっかけとして、後に手に負えないほどの枚数となるレコード・コレクションの最初の一枚を買うことになる。年上の兄弟がいたり、卓上プレイヤーを持っていたら、すでにシングル盤あたりを買っていたかもしれないが、自分は長男でそれまで唯一のオーディオ関連というとちっぽけなカセット・プレイヤーのみ。いつも聞いていたのはFM放送で流れた音源をエアー・チェック(録音)したカセット・テープだった。が、ここで初めて形のある作品を手にすることになる。それがはっぴいえんどの、通称『ゆでめん』と呼ばれるデビュー・アルバムだった。電車の初乗りが30円の時代に、定価1500円で販売されていたシングル・ジャケットもので、カタログ番号はURL-1015。おそらく、これこそがオリジナル・プレスのはずなんだが、それが50年の時を経てけっこうな値段で取引されるような代物になるとは微塵も想像できなかった。

 大阪はミナミの地下街かどこかにあったレコード屋で買ったような気がするんだが、なんというお店だったかは覚えてはいない。ただ、難波から南海高野線を下って家に向かう途中、電車のなかで何度も何度もジャケットを眺めてはニヤニヤしていたものだ。見ているだけじゃ、音は聞こえてこないし、傍目から見ると、タダの変な高校生。白い目で見られていたのかもしれないけど、やっと『作品』を手にしたことが嬉しくてたまらなかった。

ほぼ半世紀前に生まれて初めて買ったレコード、はっぴいえんどのデビュー・アルバム、通称『ゆでめん』は今も自宅のレコード棚に保管されている。若干の染みがジャケットには見られるかもしれないが、盤そのものはほぼミント状態。幾度となく再生しているが、今も素晴らしい音で鳴ってくれる。

 まずは端から端までジャケットをチェックする。黄色い背景に軽い朱色で印刷されているのが、林静一画伯の作品。あがた森魚のアルバム『乙女の儚夢』と遭遇するまで、その名前をはっきりと意識することはなかったはずだが、それが強力なインパクトを与えていた。ゆでめんと書かれた看板の下にある「風間商店」や電柱に貼られている映画の宣伝ポスターとおぼしきものに書かれている「愛の化石」ってなになんだろうと気になったり、煙突から飛び跳ねているように描かれているのってなに?と、思いを巡らす。そして、裏に印刷されているメンバーの写真やクレジットをチェックするのだ。

 帰宅すると、真っ先にジャケットを開けてレコードを取り出す。内部に白い紙が組み込まれている四角い保護袋に収納されていた盤に、灰色ベースの歌詞カードも封入されていた。ターンテーブルにレコードを置いて、再生しながら、それをチェックするのだ。手書きの文字は、学生運動の時代、立て看やガリ版刷りのチラシでよく目にした、ちょっと角張ったタイプ。それを目にしながら、アメリカが「亜米利加」と書かれていることに、「なんでだろう」と思い、最後の曲「続はつぴーいいえーんど」のラストが「はつぴ「いいえ」んど」となっていることに気付く。ん?「はっぴいえんど」じゃないんだ。どうして?って感じかな。

 最後に「下記の方々の多大なる御援助に深く感謝したい」と、様々な名前が列記されていた。いろいろなアルバムで見かける「Special Thanks」ってのがこれなんだろうとわかったのはずっと先のこと。これにどれほどの意味を持たせようとしていたのか、全然わからないけど、やたら気になっていた。

Special Thanksとして最後に加えられている、多種多様な背景を持つ人達の名前の数々。後に様々な局面で出くわすことになるアーティストやバンドから作家や漫画家に思想家やストリッパーから浪曲師までが登場している。ここになんのつながりがあるんだろうと思ったのは若かったから?

 おそらく、彼らが影響を受けたんだろう、数々のロック・アーティストやバンド名に混ざって、永島慎二やつげ義春といった漫画家の名前が目に入る。後にそういった人達の作品を読み始めたのも、このあたりに伏線がある。さらには、唐十郎の状況劇場を実際に体験して、一条さゆりというストリッパーをネタにした、神代辰巳の映画『濡れた欲情』もこっそりと見に行った。そう言えば、当時、よくお世話になったのが、もう姿を消してしまった、大阪ミナミの成人映画専門映画館、千日前のテアトルA&P。自動発券機でドキドキしながらチケットを買って、いろいろな名作を見たものだ。

 とはいって、はっぴいえんどの魅力が充分にわかってこれを買ったのかどうかといえば、かなり疑わしい。ただ、ひどく影響を受けていた深夜放送を通じて多くの人たちが彼らの魅力を語っていたのがこれを買った理由だろう。その魅力がなになのか知りたかったし、背伸びもしたかったのかもしれない。それに外国の物まねのようなロックに辟易し始めていたこともある。ちょうど「日本語でロックは可能か」なんて、今では信じられない議論が当然のようになされていた時代だ。そんなとき、日本語という自分の言葉にこだわって作られたこの作品になにかを期待していたのかもしれない。

『ゆでめん』の巻頭を飾る名曲「春よ来い」。「お正月と言えば、こたつを囲んで..」ってのが、ロックか?なんて言われたこともあったような。です、ます、で終わる歌詞への違和感もあったかもしれない。あらゆる意味で、議論されることになったアルバムじゃなかったかな。 

衝撃は... なかった、正直言ってしまえば。多くの人たちが「時代を変えた傑作」として、この作品を語り続けているのは知っているし、それは十二分に正しいと思う。ただ、初めて聞いたときにガツ〜ンと来るものはなくて、自分自身が確信を持ってそう思うにいたるには時間が必要だった。それでも、日本語とロックの議論が耳に入っていたせいか、あの時は、どこかで「これが新しい日本のロック」なんだと自分に言い聞かせていたようにも感じる。なにせ、あの頃、ロックといえば、真っ先の思い浮かべるのがジミヘンにジャニス・ジョプリンにツェッペリンやクリームといった時代。海外で成功していたのは、同じ流れに位置するフラワー・トラヴェリン・バンドぐらいだ。ステレオ・タイプにも映るロックのイメージ、あからさまにヘヴィーなサウンドや攻撃性をはっぴいえんどに感じることはなかった。でも、それを遙かに越えたところにこのアルバムがあったように感じたのだが、それをすんなりと自分が受け入れるにはまだまだ時間が必要だったのかもしれない。

 振り返って考えれば、ロックだろうが、なんだろうが、どうでもいいこと。だけど、時流もあったんだろう。これを機に「これが日本のロックなんだ」とまわりの仲間に吹聴し始めていた。ところが、ちょっとカーリーヘアーでミック・ジャガーのように唇の厚い友人が「どこがロックやねん」と、エレキ・ギターを抱えて弾きだしたのはストーンズの「Jumpin' Jack Flash」。「これがロックや」という彼には「春よ来い」も「敵タナトスを想起せよ!」も「あやか市の動物園」もロックには聞こえなかったらしい。一方で、もうひとりの友人は「うん、うん」と頷きながら、ニール・ヤングの「Heart Of Gold」なんぞを歌い出していた。

 エルヴィス・プレスリーでロックンロールが爆発し、60年代のサイケデリックを経て様々なバンドが「ニュー・ロック」と紹介されていた頃、短絡したロックのイメージをあざ笑うようにありとあらゆるスタイルのロックが日本にも伝わり始めていた。フォークやロックの垣根なんてなくなっていたし、カントリー・ロックからブルーグラスがロックとクロスオーヴァーした音楽も魅力だった。アメリカ南部の泥臭い音楽やブルースにソウル、シンガー&ソングライターといった動きが話題になり始めていた頃でもある。そのあたりを考えると、はっぴいえんどは遙かに時代を先取りしていたんだろう。

ジャケットの表にはバンドの名前もアルバムのタイトルも記されてはいない。帯がなければ、ただ4人の顔が並べられているだけのセカンド・アルバム『風街ろまん』。これは1976年に東宝レコードから再発されたもので、二つ折りのジャケット内部にはイラストと松本隆の詩が並べられている。

 それが確信となったのは発表されると速攻で買った二枚目の『風街ろまん』だった。どこかでザ・ビートルズの『Let It Be』を思わせるようにメンバー4人の顔を配置したのがそのジャケット。あっちはメンバーがいろいろな方向を見ていたけど、こっちはまっすぐと真正面を向いている。どこかで「これが私たちなんだ」と語りかけているようなジャケットを開くと、目に入るのは宮谷一彦が描くチンチン電車のイラスト。その右側に記されている、作詞の核となっていたドラマー、松本隆の詩がこのアルバムのイントロダクションだった。そして、ゆっくりと確実に動き出す機関車を思わせるイントロで始まる幕開けのナンバー「抱きしめたい」で、一気に彼らの世界に吸い込まれていった。

 全てが完成されていたように思えていた。ロックだとかフォークだとか、洋楽だとか邦楽だとか、そんなことどうでもよかった。70年代頭という時代やそこに生きる人達の情景と心情を見事に描写しているようでいながら、実は、それが描いている人達のみならず聴く人達の心象でもあるような不思議な感覚を与えてくれるのがこのアルバム。しかも、幾重にも意味を増殖させるかのような言葉の使い方や描き方にも驚かされていた。聴けば聴くほどに、見れば見るほどになにかが伝わってくる。どれほどの年月が過ぎてもここに込められている歌の輝きが薄れるどころか、ますます眩しく響いてくるように思えるのだ。結局、これが多感な15〜16歳だった自分にとんでもない影響を残していったんだろう。

なぜか本国アメリカではあまり評価されていない映画『いちご白書』(原題:The Strawberry Statement)でフィーチャーされている曲の多くがニール・ヤングやCrosby, Stills, Nash & Youngの名曲の数々。このバックで使われているのはNeil Young & Crazy Horseによる「Down By The River」。2009年のグラストンバリー・フェスティヴァルにニール・ヤングが姿を見せたとき、この曲を演奏してくれたのには驚かされたものです。

 まるで優等生的な表情で高校に入ったというのに、半年もしない頃には髭も伸びて、ギターを弾き始めていた。はっぴいえんどのアルバムを買ったのは、そんな頃か。アメリカン・ニューシネマの傑作、大学を舞台に広がった反戦運動を核にした青春ドラマ『いちご白書』の影響で、野暮ったいめがねにおさらばして、手に入れたのが当時は珍しかったメタル・フレーム。反抗期爛漫だったんだろう、見てくれも含めてやたら生意気な高校生へと変貌していった。『ゆでめん』の最後に名前が記されていた作家、大江健三郎の『セヴンティーン』を読んで、左翼かぶれの若者が行動右翼へと変貌していくストーリーに共鳴したなんてこともある。それを先輩に伝えると、「お前もしょんべん垂らしながら、校庭を走ったか」と言われてみたり... その小説で主人公がそんなことをさせられるシーンがあって、からかわれたのか、馬鹿にされたのか... 一方で、やたら怖い数学の教師に「問題に答えられなかったら、校庭一周」と言われて、実際にやらされたこともあった。そう言えば、もうひとりの先輩からは「右翼の圧力で出版されなかった『セヴンティーン』の続編が地下出版されてるけど、読みたいか?」と言われて、それを借りて読んだこともあった。

 1年生の夏か、あるいは2年生の時かなぁ。制服の代わりに白の開襟シャツに黒いジーンズで登校を始めたこともある。もともと「制服」に縛られるのが嫌でたまらなかったのが理由。当然のように、喰らったのが、クラスの担任、体育の教師の呼び出しだった。彼は「お前はなんでそんな恰好で学校に来るんだ」と責め立てるんだが、クソ生意気な自分は「なんでアカンのですか?」とくってかかっていた。生徒手帳なるものに目を通しても学生服の定義なんて見当たらない。白いシャツに黒いズボンでどこに問題があるのかと議論をふっかけて1時間ぐらいは教員室にいたかなぁ。結局、「もうええわ、帰れ」となった。と思えば、髪を伸ばし放題にして胸にまでかかる長髪になった頃、朝礼の時に風紀担当の教師に「お前、髪長いんとちゃうか。切ってこい。」と言われたこともある。ぶち切れた自分がなにをしたか... 「切ったら、よろしおまんねんな」と、その翌日、丸坊主にして登校したこともあった。それを見た、あの教師は「そこまでやれとは言うてないやろ」と、おたおたし始めて、それ以降、一切、自分には絡んでこなくなった。

 反抗期もあったんだろう。でも、それ以前に、権力を盾に弱者に圧力を加えたり、潰そうという人間には虫酸が走るような高校生になっていた。加えて、理不尽な規則やルールに対する反感もある。それが、後の制服廃止闘争に繋がっていくのだが、そのあたりの話はまたの機会に書き残してみようかね。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新です。次回更新は4月中旬予定です。お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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