10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の自伝的連載コラム、第29話。音楽の中に入り込むことを教えてくれたウォークマンに乾杯!あまりに夕陽がきれいだから、仕事をやめちゃったじゃないか。
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音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第28話 - 名古屋でのレコード屋奮闘記に浪曲でジャズを感じたとな? - シリーズ一覧はこちら
花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】
ウォークマンの誕生は衝撃だった。音楽や音を録音することが目的で生まれたのがカセット・レコーダーだったのに、これは録音できない再生専用カセット・プレイヤー。1979年にSONYがこれを生み出したときも「本当に売れるんかい?」と社内でもかなりもめたとか。ところが、これが大ヒットを記録して、音楽の聴き方を大きく変えることになる。が、今となっては、その意味はおろか、これがなにかを知る人も少ないかもしれない。なにせ、携帯端末、いわゆるスマホにイヤホンを装着して音楽を聞くなんぞ、とるに足らない常識。いや、下手をすると、それこそが音楽を聞くスタイルの主流となっている。
が、これが誕生するまで、音楽は自宅や店で聴くものだった。もちろん、小さなテレコや電蓄と呼ばれた卓上プレイヤーを持ち出して、海辺やパーティで音楽を聞くこともあっただろう。60年代のモノクロ映画を見ていると、そんなシーンに出くわすこともある。が、あの時代、それほど大きな音で楽しめることもなく、あくまでスピーカから流れ出る音を軽く聞き流す程度に過ぎなかった。
キャッチコピーが、そのものずばり。「ステレオが部屋を出た」。それ以上に、実際に装着して音楽を聞くと「音楽のなかにいる」感覚を持てたことも革命的だった。1979年7月に発売されて以来、音楽の聴き方が大きく変化することになると未来を想像できた人はいたのかな?
ところが、ウォークマンが可能にしたのは、家や店を出て外の風景と音楽に囲まれるという未知の「体験」だった。今ではあまりに普通すぎて、こんなことを気にもかけないかもしれない。が、初めてこれを体験したときは、まるで映画のなかに放り込まれたような気持ちになったものだ。それはウォークマンが出現するまで、一度も味わったことがなかった感覚。そうすることで、慣れ親しんでいたはずの愛聴盤が、全く違った響きを持つようになっていた。
強烈にそれを感じさせたのが、フランス映画、ヌーヴェルヴァーグを代表する『死刑台のエレベーター』のサントラ盤だった。弱冠25歳のルイ・マル監督が撮影したこの作品のラッシュをマイルス・デイヴィスに見せて、彼が即興で生み出した音楽。そのLPの音をカセットにダビングして、レコード屋からの仕事帰りに聞くのだ。人通りの消えた地下鉄の通路を歩きながらこれを聞いたときのゾクッとした感覚は今でも忘れられない。タイミングもあるんだろう。あの通路が人で溢れていたらこうはならなかったかもしれない。この時はあのモノクロ映画の世界に吸い込まれていったような気持ちになったものだ。
この映画『死刑台のエレベーター』(Ascenseur Pour L'Échafaud)の中にすっぽりと入り込んでしまったような感覚に陥ったのが、ウォークマンでそのサントラ(660.213 MR)を聴いたときだった。You Tubeをググってみると、この時のセッションの様子が映像で残されているのに驚かされる。
そんな感覚が嬉しくて、持っているレコードをどんどんカセットにダビングするようになる。多くの音楽ファンが同じように感じたのかどうかは知らないが、ウォークマンは爆発的なヒット商品となり、音楽市場にも変化が生まれていった。もちろん、商品の主流はレコードだが、カセットテープのソフトも大きく売り上げを伸ばし始めていた。一方で、レコードをカセットにダビングする人が増えることで、急速に録音用カセット・テープの消費量が加速。カセットデッキのみならず、ラジカセなどのマーケットも拡大していく。同時に、レコードからのダビングが増えると、セールスに支障が出るとみた音楽業界は「ダビングは違法である」というキャンペーンを始めていた。
ところが、面白ことに、ウォークマンに代表される携帯音楽端末の流行を皮切りに、簡単に音楽を聞くことができる環境が一気に拡大。市場そのものを肥大化させていくのだ。後に知ることになったのだが、オーディオ機器の普及が進まなかった第三世界ではレコードよりもカセットが主流となっていたとか。いつだったか、友人のプロデューサー、シェブ・ハレッドの名作『Kutche』を生み出したマルタン・メソニエと出会った頃、彼から耳にした逸話が面白かった
Cheb Khaledと「La Camel」という言葉を検索して出くわしたのがこの映像。どういった脈絡があるのかははっきりしないが、マルタン・メソニエのプロデュースによる名盤、1988年に発表された『Kutché』(064 79 0934 1)の巻頭を飾るのがこのナンバー。
「クラッシュの連中がハレッドに言ったんだ、俺たちのアルバムは世界で600万枚売れてるって。そしたら、彼がアラブの世界だけで自分のカセットもそれぐらい売れてるけどね、なんて言い返してたなぁ」
第三世界や後進国という言葉の響きに納得できないものを感じるのだが、一般にそう言われていた国々ではレコードを中心としたオーディオ機器が普及したのは比較的裕福な人達の間にとどまっていたような。一方で、一気に低価格化が進んだラジカセが市場を席巻。カセット・テープが音楽産業の中心となっていったと聞いている。そして、それがCDへと変遷していくことになる。
そんな時代背景はさておき、ウォークマン体験のおかげで、その翌年、日本を飛び出したときに、音楽好きな自分に必要不可欠なものとして携帯していたのがウォークマンとカセットテープの数々。海外ではまだその存在がほとんど知られていなかったことから、音楽を聞きながら街を歩いていると、「なんじゃ、あれは?」と奇異な目で見られることが多かった。が、そのおかげで、実に裕福な音楽体験を繰り返していた。
うらぶれたリゾート地のホテル街をイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』を聞いて通り抜け、英仏海峡に沈む夕陽を前にトム・ウエイツの『Closing Time』(SD5061)を聞く。あるいは、海を見下ろす崖の上を散歩しながらライ・クーダーの『Bop Till You Drop』(BSK 3358)にはまるなんてこともあった。あるいは、ヒッチハイクで拾ってくれる車を待つ間、ジャクソン・ブラウンの『Running On Empty』(6E-113)を聞きながら、「自分はどこに行くんだろう、まだ、なにもわかんないなぁ」と、まるで自分が歌の主人公になったような気分に浸っていたものだ。
Jackson Browneの大ヒット・アルバム『Running On Empty』(6E-113)は1977年に発表されている。この最後に収録されている曲「Stay」をライヴの最後に聞きたいというファンがいっぱいいたなぁ。歌詞をチェックすれば、その意味がよ〜くわかります。
実のところ、5年目にして大学を卒業できる目処が立った頃から、同じような思いを抱いていた。就職なんてしたくないけど、しなきゃいけないんだろう。毎日ネクタイ締めて、スーツ着て、会社に行くような人生なんて嫌だよなぁ。と、そんなことを考え始める。やりたいことなんて、なんもないけど、とりあえずは就職かぁ... と、みんな、やってるからと、就職活動なんてことをしてもみる。でも、どこの会社もつまらない。といっても、面接したのは2社だけで、片方は「お断り」されたので大きなことは言えない。が、内定が決まっていたもう一方に関して言えば、なにやら胡散臭いと、こちらからお断りしていた。
とどのつまり、どうでもいいやと、好きな音楽に絡んでいるレコード屋で仕事を始めるのだが、ずっと続けるつもりはなかった。すでにその段階で「日本を飛び出そう」と腹は決まっていた。大学で哲学なんぞを勉強しているふりをして、たどり着いた結論が寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」で、そこに加わったのが小田実の貧乏旅行記録のような「何でも見てやろう」。どうせ、そんなつまらない社会人にならないといけないんだったら、その前に最後のわがままをしてやろうじゃないか。と、1年ほど、日本を出て旅をしようと決めることになる。
具体的にいつ決心したのか、はっきりしないんだが、在学中からいろいろ調べていたようだ。インターネットなんて想像もできなかった時代に、どうやって調べたのか? 振り返っても全くわからない。が、とりあえずは、語学留学ってのがあるらしいから、そういった学校でしばらく勉強をして少しは話ができるようになったら、いろいろ旅をしてみようと考えたのはうろ覚えしている。
それまで飛行機にのったこともなければ、海外に出たこともなかった。海外旅行が自由化されたのは1964年。といっても、そんなの金持ちの世界の出来事で、庶民には全く関係なかった。いわゆる中産階級の小金持ちがぽろぽろパッケージ・ツアーに申し込んだりってのが70年代の半ばあたりか? 他には、エコノミック・アニマルと称された企業戦士たちが地の果てまでも日本製品の営業に突っ走っていた頃かもしれない。それに加えて、ちょいとヒッピーがかった若者が「1日1ドルで世界を旅する」ってな本の影響もあったんだろう、ぽろぽろと海外、主に、アメリカやインドあたりを目指し始めた頃だった。
ひょっとすると、そんな世代の先輩のひとりが、教育学部の助教授だったのか? 想像に過ぎないんだが、市場調査のバイトを斡旋してくれていたことで親しくなった彼から、自分が考えている旅に関して面白いアドバイスをもらったことは覚えている。
「安く旅をしたいんだったら、このメンバーになったら宿代が浮くよ」
と、教えてくれたのがサーバス・インターナショナルという組織だった。サーバスとは、世界共通語として考えられたエスペラント語で「Service」を意味すると教えてもらったことがある。世界中に存在するメンバーが、客ではなく家族の一員としてこの組織のメンバーの家に少なくとも二泊三日できるという決まりがあって、そういったフェイス・トゥ・フェイスのコミニュケーションを通じて世界平和を築こうという考え方がベースにあるらしい。「これは便利だ」と、確か、組織の方との面接をしてメンバーとなったのはいつだっけか? ほとんど覚えてはいない。が、それを活用して、その1年後にイギリスでヒッチハイクの旅をすることになるのだ。
といっても、それはずいぶん先のこと。こつこつとそんな準備をしていたんだろうが、いつそれをやったか、全く覚えてはいない。レコート店に勤め始めた頃は店長の家に居候している身で、そんな余裕はなかったように思う。実際のところ、少なくとも1年は勤めて金を貯めようと考えていたのだが、「もう、耐えられない」と店をやめたのは11ヶ月ほど働いたときだった。
ずっと疑問に思っていた。毎日朝早く起きて、ラッシュアワーの人波に揉まれて出勤。タイムカードをガッチャンと入れて、店舗の清掃から仕事を始める生活でいいのかどうか。仕事そのものを苦に思ったことはないんだが、週に一度か、テナントとして入っていた大手スーパーの朝礼のようなものにかり出されるのが苦痛だった。愚にも付かない社訓を唱和させられて、店長の訓示かなにかを聴かされる。そんなことで売り上げが上がるのか? 労働者を無知な道具にしか見ていない店長の醜悪さに幾度となく反吐が出そうになっていた。
そんなもやもやした気持ちが蓄積されて、あっぷあっぷになった頃かなぁ。休憩でスーパーのとある階の裏にある休憩所でタバコを吹かしながら窓越しに見た夕焼けに持っていかれることになる。なんと美しい景色が広がっていることか。そんなことに気付くことも、楽しむ余裕もない毎日が続いていた。仕事を終えてスーパーを出る時刻になると、外は真っ暗で、飯を食って寝るだけの生活。そんなことの繰り返しで人生を無駄にしてるんじゃないのかな... ばからしいな、辞めちまおう。と、なにやら唐突に、そんな衝動がわき起こっていた。そして、仕事をやめることを決意。お世話になった店長には申し訳ないが、それをきっかけに、実家のある大阪に戻って身辺整理を始めていた。
と、日本脱出直前に何が起きたのか? それは次回のお楽しみということで。
レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新を目指しております。次回更新予定は2023年9月中旬となります。お楽しみに!
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花房浩一
(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)
1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。
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