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音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第28話 - 名古屋でのレコード屋奮闘記に浪曲でジャズを感じたとな?

音楽ジャンキー酔狂伝 アイキャッチ

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の自伝的連載コラム、第28話はレコード屋での奮闘記から先代の広沢虎造にジャズを見た!?ってか。

 テイチク・レコードという会社名が、設立時の帝国蓄音機を簡略化して生まれたという話を教えてくれたのは、大学を卒業して就職したレコード屋の店長だった。

「うちの会社もな、大阪蓄音(機)から来てるんや」

 と、あの時はそう聞いたと思うのだが、けっこう昔のことなので、詳細までは覚えてはいない。大阪の後に続いたのか、蓄音機か、ただの蓄音か? それが簡略化されてダイチク(大蓄)となった老舗が大学を卒業して初の就職先だった。兵庫県神戸市に本社があり、あの頃、西日本から中部地方へとチェーン展開していて、その名古屋支店が職場となっていた。

 歴史や規模を考えると、けっこうな会社なんだろう。それでも、就職前か後か、本社を訪ねたようにも思うが、ただのレコード屋さんだったという記憶しかないのは自分の勘違いか? いずれにせよ、自分には名古屋市内の金山という町にあった大手スーパーのテナントとして居を構えていた小さな店が全てだった。

 期待していたのは、輸入盤を中心に展開していた岡山店だったんだが、その片鱗もなかった。スーパーの何階だったかは覚えてはいないが、テナントが集められたフロアで、一番奥にある、けっこうご年配の女性が二人で切り盛りしているはんこ屋さんのお隣。輸入盤どころか、洋楽さえ相手にされないような店だった。

1979年の秋に爆発的なヒットを記録した久保田早紀の「異邦人」(06SH 636)。TVCFとのタイアップがこのヒットを生み出したんだが、制作関係の人達の予想を遙かに超えるスピードで売れたといわれている。

 売れるのはヒット曲に演歌系のレコードがメイン。それこそ飛ぶように売れたのがジュディ・オングの「魅せられて」や久保田早紀の「異邦人」だったことは前回書き残している。面白いのは、そのおかげでレコード番号なんぞを覚えてしまったことかなぁ。今なら、バーコードがあって、「ピ」っと読み込めば正確に売れた時間も在庫も確認できるはずだ。が、それが登場したのは80年代半ば。しかも、末端の店舗でこれが機能するのはまだまだ先のことになる。

 というので、1枚売れる度に、前者なら、「06SH456」と伝票に書き込んでいくのだ。そうすることで、売り上げデータを記録して、在庫調整が可能となる。さらには、売れの流れや傾向を考えて、発注する枚数を決めるのだ。このレコードを発売していたのはCBS/Sony。そのレコード番号がなにをベースにおいているのかは一目瞭然だった。06が価格で600円の意味。SHとは邦楽のシングルなんだろう。で、その後は単純に個別の番号が付けられている。例えば、「異邦人」を収録した久保田早紀のデビュー・アルバム『夢がたり』は25AH919で、これも同じように2500円で発売されている邦楽のアルバムを示す。洋楽(ポピュラー音楽)だとシングルはSPでアルバムはAPと、どこのレコード会社も、基本的には似たような発想でレコード番号を付けているように思えた。

 小規模なレコード屋の場合、できるだけ在庫を減らしてヒット曲で稼ぐというのが基本。だから、「売れそうにもない」ものは発注しないというのが鉄則となる。なによりも「売り」のチャンスを逃さないための感が養われるのだ。が、それが難しい。例えば、ちっぽけな店でさえ1日に100枚ぐらいが売れていたのがあの「魅せられて」。当然、追加注文となるのだが、「生産が間に合わない」と、入荷できない日が続いた。結局、何人ものお客さんに「すいません、まだ入荷できないんですよ」と平謝りを繰り返して、かなりの売り逃しをしたことになる。博打のように腹をくくってタイミング良く何枚注文して売るかが、こういったレコード屋の勝負所なんだと勉強できたのがこの時だ。

 でも、新譜の受注が始まるのは、実際に動きが出る遙か前のこと。各店舗を廻ってくるレコード会社の営業が「いやぁ、このレコードは売りまっせ」と、宣伝戦略の話なんぞをして、こちらが最初の発注数をひねり出すんだが、連中の話がどれほど信用できるか? ただ、大風呂敷を広げているだけの営業も多かったので、そんな話に気軽に乗れるわけがない。しかも、こういった小規模な店では毎月の仕入れ予算が限られていて、効率よく「売れるもの」を仕入れなければ死活問題となるのだ。

 例えば、久保田早紀に関していえば、アルバムの受注はシングルがヒットするずっと前じゃなかったかなぁ。あるいは、すこし騒がれ出した頃か... あそこまで急速に爆発的なヒットとなるなんて誰も予見できなかったというので、デビュー・アルバムの発注は10枚。ところが、シングルが売れまくって、アルバムへ期待が高まったんだろう。12月8日の発売日入荷分は即日完売。追加注文したところで、永遠とも思えるほどの日数を経ても届かない... といった事態に直面していた。

 入社したのが1979年の3月で、数ヶ月もしないうちに仕事も覚えて、仕入れも担当できるようになっていた... とはいいつつ、もちろん、店長と相談の上なんだが、久保田早紀作品に関しては、自分の判断ミスで「売り」のタイミングを逸したことが悔やまれてならなかった。

John David Southerが1979年に発表したアルバム『You're Only Lonely』(25AP 1632)のタイトル・トラック。実は、彼のみならず多くのミュージシャンが影響を受けていたのがRoy Orbisonで、この曲は彼の「Only The Lonely」にインスパイアされたとか。この当時は、そのあたりのことはなにも知らなかったなぁ。

 一方で、「これは売れる」(同時に、売りたい)と思って、注文したアイテムが売れなくても、店長が小言を並べることはなかった。ちょうどCBSソニーがAOR的なシンガー&ソングライターを押している時期で、好き者の間で騒がれ始めていたのがジョン・デイヴィッド・サウザーやカーラ・ボノフといったシンガー&ソングライターたち。そのあたりを気に入っていたものだから、自分でPOP(宣伝用看板)を作って、関心のありそうなお客さんにアプローチしてみたり... ってなこともあったのだが、それで彼らの財布のひもが緩むことはほとんどなかった。

 他にはキング・レコードがCTIというレーベルの名作を廉価盤でシリーズ化したり、今でこそ音質がいいと好評のBlue Noteの未発表作品のリリースをやっていた時期でもある。個人的にはこのあたりが気になって、入荷してみるんだが、どれもこれも売れない... とどのつまりは、自分が聞きたいってだけの理由で仕入れていたようにも思う。店の立地条件から紛れ込んでくる客の指向性などを考えたら、そのあたりを仕入れること自体に無理があったんだろう。

Mこと、ロビン・スコットによる大ヒット曲「Pop Muzik」。1979年3月に発表され、世界で600万枚を売り上げる驚異的なヒットを記録している。この翌年、偶然、居候していた友人の家でのパーティで彼と出会うことになるとは... このビデオのバックコーラスでちらっと映っている奥さんと家の主が繋がっていたんだとか。

 それでも「いかに売るか?」、「購買意欲を刺激するか」を考えて試行錯誤を繰り返していた。ヒット曲を流すってのは、当然。ところが、歌謡曲なら文句を言われることはなかったんだが、洋楽となると近所の店から「五月蠅い!」と苦情がやって来る。あの頃、よく使ったのが、世界的な大ヒットとなったテクノ・ポップの代表曲、Mの「ポップ・ミューヂック」。それから数年後にこれを歌っている張本人と偶然出会うことになるとはつゆ知らず、けっこうな音量で流していた。その時に目にした、はんこ屋のおばさんたちの嫌味な顔はなかなか忘れられるものではない。

 そのレコード屋時代の昼休みといえば、公園のベンチで牛乳片手にパン1個を喰らって、あとはそこで時間を潰すか、ちょいと贅沢をして茶店でコーヒーを一杯ってのが普通だった。そして、夜は味噌汁とご飯のおかわり無料という定食屋で一番安い焼き魚定食。遊びに出かけることはほとんどなくて、きわめて地味な生活を繰り返していた。が、ひもじいといった感覚はほとんどなかった。というのも、この頃に固まっていたのが、「日本を飛び出す」という決意。その目標のためと思えば、なんてことはなかった。なによりも必要なのは金。だから、少しでも節約して、わずかな給料のほとんどを貯蓄していのだ。

 手取りは10万ほどで残業手当が少し付く程度。その半分以上をため込むことができたのだが、それはレコード屋の店長宅に居候できたのが理由だろう。といっても、一戸建てではなくて、地下鉄、名港線の東海通の駅から歩いて数分の場所にあった、九番団地という集合住宅の1室。そのリヴィング・ルームにスペースをもらって寝起きしていたように記憶しているが、1LDKだったのか、2LDKだったのか? ほとんど覚えてはいない。それほど広くはなかっただろう、ここでの生活はまるでレコード店員養成所のような趣で、家賃も光熱費も払ったことがなかった。

 おそらく、あれは、社宅のような存在だったと察する。そこをあてがわれていた店長はまだ20代後半。名古屋近辺の支店を統括する立場の人物で、頻繁に出張していたものだ。彼の出で立ちはというと、パンチ・パーマでいつもピシッと決めたスーツ姿。下手すると、どこかの組の若頭に見えなくもなかったが、一方で、商売人としての物腰なども備わっている。傍目に見ていても、かなりもてるタイプではなかったかと思う。おそらく、適当に遊んでいたんだろうが、自分が居候していることもあって好き勝手にはできなかったのかもしれない。振り返れば、よくも我慢をしてくれたと思う。

 その彼のおかげでいろいろ勉強することもできた。レコード店にまつわる仕事はもとより、自宅でときおりサックスの練習をするほどのジャズ好きだというので、彼に教えてもらったのがコンコードというレーベルからアルバムを発表していたサックス奏者、スコット・ハミルトンだった。

ある時期のレーベル、コンコードを代表するアーティストだったサックス奏者、スコット・ハミルトンの映像。彼が若い頃の映像はなかなかみつからないので、これは貴重かもしれない。1977年『Scott Hamilton Is A Good Wind Who Is Blowing Us No Ill』(CJ-42)が初リーダー・アルバムではないかと思う。

「いやぁ、色気があるんや、彼のサックスは」

 と、言われて聞いてみると、実にその通り。どこかで「ハーレム・ノクターン」で大ヒットしたサム・テイラーに近い音色と色気を感じさせる彼のアルバムをよく聴かされたものだ。ほとんど売れないってのに、ときおりジャズ系のアルバムを発注しても、文句を言われなかったのは、そのあたりの彼の趣味に起因しているのかもしれない。

 が、彼から教わった最高の宝物は浪曲だった。特に先代の広沢虎造の『清水次郎長伝』に持っていかれることになるのだ。

「このシリーズを全部、完璧に揃えてるのはポニー・キャニオンのカセットだけでなぁ、それ、注文したんや。自分ら(関西弁で、あなたのことをこう言う)みたいな若いのは、聞いたことないやろけど、欺されたと思って、聞いてみたらどうや」

 というので、「ほな、欺されてみますわ」と聞き始めたら、ものの見事にはまる。おそらく、今の若い世代から見たら、マイナーどころか、「なんですか、それ?」ってな世界。70年代終わりの若者にとっても同じようなもので、「旅ゆけばぁ〜」と始まるフレーズや「江戸っ子だってねぇ、寿司食いねぇ」なんて台詞をわずかに耳にしたことがある程度に過ぎない。受験勉強していた頃、徹夜明けの早朝に高齢者向けにラジオで浪曲が流れているのに気付いたことはあっても、まともに聞いたことは皆無。普通に聞いていた音楽とは全く趣を異にする世界なのだ。が、めちゃくちゃ面白い。

あらためて聞くと広沢虎造がどれほど偉大だったのかがよくわかる。声のトーンから表情... どれをとっても、完成されている。三味線と合いの手とのタイミングを聞いていると、これこそ『あうんの呼吸』。その絶妙な絡みがどうやって生まれたのか?

 粋な三味線をバックに、まるで「あうんの呼吸」で聞こえてくる演者のかけ声にのって始まる、唸るような歌が導入部。それから「語り」で物語となるのだが、たったひとりの語り手が演じてみせるのが、主人公のみならず、独特なキャラクターを持つ登場人物の数々。目を閉じていると、まるで映画でも見ているように彼らのイメージが浮かび上がる。特に有名なのは、前述の「食いねぇ、食いねぇ、寿司食いねぇ」で知られる「石松三十石船道中」あたりだろうが、聞き始めると、どれもこれもが面白い。例えば、「石松金比羅代参」で、清水次郎長と森の石松とのやりとりに絡む大政の表情を絶妙に使い分け、その部屋の空気までを「見せて」くれる虎造に惚れ込んでしまうのだ。

 昔はバッタ屋と呼ばれる安売りの店で海賊盤もどきのカセットやCDをよく目にしたんだが、今はどうだろう。おそらく、YouTubeあたりでいろいろみつかるはずだが、チャンスがあれば、前述のエピソードの他、「お民の度胸」や「閻魔堂のだまし討ち」あたりを聞いていただければと思う。なぜか落語や浪曲好きにジャズ・ファンが重なるとよく聞くんだが、どこに共通点があるのか... そこはかとなくわかるかもしれない。

 たいていが25分ほどとなるエピソードの締めくくりは、おきまりのように「ちょうど時間となりました。ちょっと一息願いまして...」という下りとなる。なんだが、続きを聞きたくなるような雰囲気作りが、ラジオで一世を風靡した虎造のなせる技なんだろうかねぇ。と、同じように、「ちょうど区切りとなりました...」と、今回の原稿を締めくくってみようと思う。が、これで次回の原稿を楽しみにしてくれるかどうかは、かなり疑問だなぁ。おそらく、音楽を聞く意味さえをも変えることになったソニー・ウォークマンあたりの話題が出てくることになるとは思うんだが、さて、次回も読んでいただけるでしょうかなぁ。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬更新です。次回更新日は8月中旬を予定しております。お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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