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音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第21話 - 夢の海外、夢のアメリカで、ウエストコーストからシンガー&ソングライターにはまる。

花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第21話。夢の海外、夢のアメリカで、ウエストコーストからシンガー&ソングライターにはまっていくのです。

 毎年3月にテキサスのオースティンに出かけて、SXSW(サウス・バイ・サウス・ウェスト)と呼ばれる音楽や映画の見本市のようなイヴェントを取材。6月は英国で世界最大規模のフェスティヴァル、グラストンバリーに出かけるというのが、コロナで世界がひっくり返る前まで、10数年間にわたって続けてきたルーティーンだった。その合間に、台湾に行ってフジロックの仲間が開催するイヴェントでDJをしたり、年に一度ぐらいはバリ島あたりでのんびりする... といった具合に、とりわけ金持ちではなくても、海外に遊びに行くのが普通になったのはいつからだろう。

 

2年ぶり(実質的には3年のブランク)を置いて、50周年記念で開催された2022年のグラストンバリーを伝える映像。1982年に初めてここを訪ねた筆者にとっては40年目となる。これを見てもわかるように、まるで異次元の世界を体験させてくれるのがフェスティヴァル。ライヴはそのわずかな一部でしかない。一度体験するとやみつきになるのです。

 が、今から40数年前、そんなことを想像したこともなかったし、海外旅行なんぞ、夢のようにも思えていた。なにせ自由に遊びで海外に行けるようになったのは1964年。しかも、その頃は、年に一度に限られていた。ググってみると、海外渡航が自由化されたとき、JTBが企画した「ハワイ9日間」というパッケージ・ツアーの料金が36万円強とある。大卒の国家公務員の初任給が2万円弱の時代だ。よほどの金持ちでなければ「自由に」海外へ行けなかったのがよくわかる。加えて、持ち出しできる現金は500ドル以下。1ドルが360円に固定されていたので18万円と、キャッシュレスはおろか、クレジット・カードでさえ想像できなかった時代、みんな大金を抱えて海外に出かけていたんだそうな。

 日本を飛び出したら、きっと素晴らしい体験が待ち受けているに違いない。と、妄想にも似た感覚を持っていた。そんな気分を優しくあおってくれたのが、JALのスポンサーでヒットしたFMラジオの長寿番組「ジェットストリーム」だった。クールという言葉がふさわしい、そんな声を持つ城達也のナレーションで語られる未知の世界が、文字通り「海外旅行」への夢をかき立ててくれる。実を言えば、1981年に英国南部をサイクリングしたときに、Mermaid(人魚)と呼ばれる、英国最古のイン(Inn)、宿屋もかねたパブを訪ねたのは、あの番組がきっかけだった。なぜか番組で聞いたその話を覚えていて、実際に行ってみようと思ったのだ。そして、そのパブでビターと呼ばれる生ぬるいビールを飲みながら、想像するのだ。この建物が生まれたのは、日本で言うなら鎌倉時代。国宝級の「飲み屋」で700年以上にわたって、近所の人達や旅人が相も変わらずグラスを傾けながら、あ〜でもない、こ〜でもないと、言葉を交わしているのが信じられなかった。

魅惑の海外を見せてくれた長寿番組『兼高かおる世界の旅』はこんな始まりだった。しかも、観光名所だけではなく、生活や文化の違いも感じさせてくれたのが魅力だったのかもしれない。

 そんな海外での実体験なんぞはずっと先のことで、当時はメディアを通じて海外を垣間見ることしかできなかった。そんな刺激を与えてくれた最たるもののひとつが、結果としてジェットストリーム同様に長寿番組となった『兼高かおる世界の旅』だろう。旅行ジャーナリストと称するこの女性が世界中の国々を巡って、街の風景から風習まで様々なことを伝えてくれるのを、毎週ワクワクしながら見ていた。

小田実『なんでも見てやろう』
1979年に文庫化された小田実(著)『なんでも見てやろう』。懐かしくなって再び購入したこれは2008年の第31刷りと、長い間この本が多くの人たちに親しまれているのがよくわかる。

 なかでも決定的な影響を受けることになったのが、小田実という作家が書いた『なんでも見てやろう』という本だった。当時ベストセラーになった作品で、物語のきっかけは彼がフルブライト奨学生として、渡米することに始まる。「奨学」の名を借りた高利貸し制度が幅をきかせる今とは違って、当時も今もこれに関しては返済義務はないらしい。ここでは、彼が1958年に向かったアメリカでの生活や、その後、帰りのフライト・チケットとわずか200ドルの金を手に世界を旅した時の記録が描かれていた。

 ずいぶん昔のことなので、詳細は覚えてはいないんだが、印象に残っているのはどこかに立ち寄って、お土産を買おうとしたときの逸話かもしれない。安物の商品を手に取ると、その裏に「Made In Japan」と記されていたくだり。海外旅行とは無縁の貧しい日本の労働者、あるいは、内職で家計を助ける主婦がそれを作っている姿が目に浮かんだとかなんとか... 高度経済成長の入り口に立っていた日本はまだまだ貧しくて、当時のアメリカで日本製と言えば安物という感覚が支配的だった時代。それが逆転して、高品質の証となるには70年代終わりを待たなければいけなかった。

 ここではアメリカで初めて日本人が、当たり前のように差別されるカラード、有色人種だと思い知らされたことも記されている。ずっと日本にいたら、そんなことを気にすることなく生きていくんだろう。が、国を飛び出すことでしか、実感として捕らえられない何かがあることを知ることになる。それから数年を経て、彼とは少し違った時代に、違った形で日本を飛び出すことになるんだが、この本をきっかけに、世界を放浪する日本人バックパッカーが増えていったとも言われている。そのひとりが自分となるのだ。

 そのしばらく前からだろうか、海外旅行と同じようにアメリカに対して、憧れにも似た気持ちを持つようになっていた。子供の頃から耳にしていたのは「アンポ反対!」やヴェトナム反戦運動に学生運動の影響で「反米帝国主義」なんて言葉の数々。多少は政治的な感覚を持っている学生の間ではそれが常識で、アメリカを嫌悪する感情があったのは否めない。その一方で、音楽からファッションに関して言えば、なによりもアメリカの影響を受けていたし、実はアメリカが好きだった。
 

ポパイ創刊号
『タイムマシン』と名付けた段ボールに入っている雑誌の創刊号のひとつがこの『ポパイ』。1976年夏、いきなり「カリフォルニア特集」と、当時の若者がアメリカ西海岸にあこがれていたのがよくわかる。この他、月刊プレイボーイ、GOROや宝島の前身「ワンダーランド」も残っているなぁ。

 その頃に創刊された雑誌に「Made In USA」や「ポパイ」がある。なぜか創刊号コレクターだったというので、倉庫の奥に眠る段ボール箱に詰め込まれているのが、この他、月刊プレイボーイにGOROや後に宝島と呼ばれるWonderland等々。こういったメディアを通じてアメリカを見ていた。一世を風靡したアメリカン・ニューシネマからニューロックに雑誌が、アメリカ的なるものへの物欲を刺激。ジーンズにダンガリーのシャツ、ワーク・ブーツにウェスタン・ブーツから米軍放出衣料あたりを当たり前のように身にまとうようになっていた。

 自分よりすこし上の世代というと、なによりもザ・ビートルズであって、次いでザ・ローリングストーンズのことが語られることが多い。となれば、イギリスにも目が向くはずなんだが、それはなかったのがなぜか? よくわからない。自分の場合は、そのあたりが抜け落ちていて、初っぱなが、彼らの影響を受けて生まれた日本のフォークであり、アメリカのニューロック。それをさかのぼってカントリーやブルースと、UKのロックに影響を与えたものに向かっていった。そして、世の流れもあったんだろう。学生時代にはまりだしたのがアメリカ西海岸の音楽、ウエストコーストのロックやシンガー&ソングライターの数々だった。

 音楽情報を入手したり、交換していたのは、たまり場のカフェが中心だった。前回書き残したように、ジャズに関しては、岡山文化センターのそばにあった喫茶店、イリミテで大きな影響を受けていた一方で、アメリカ音楽に関しては、照明のバイトをやっていたときの師匠の奥さんが始めた七曜社がそれに当たる。岡山大学の裏手、後にモリカケサクラで知られることになった加計孝太郎氏の父親が始めた岡山理科大学に向かう坂道があって、その坂下あたりに軒を構えていたお店を彼女が借り受けていた。

 なんでも、オープン時のバイトを自分がやっていたという話を彼女からうかがったんだが、あまりに多くのバイトを体験していたからか、ここで仕事をしていた記憶はおぼろげだ。でも、確かにそうだろうなぁ。坂を上ってくと、顔を出すのがあの大学の駐輪場。その向かい側に建つ家の二階にあった三畳一間が下宿先だ。今なら時効だろう、幾度となく自分の車の駐車場としてそこを使っていたこともある。お店の鍵も持っていて、他のバイトの帰り道、途中の空き地に車を駐めてビールを一本... なんてこともあった。もちろん、金を残して伝票かメモを残すんだが、そこから数10メートルほど車を移動させたときに、警官の職質にあって「飲酒運転」の切符を切られた記憶もある。

1974年のカリフォルニア・ジャムと呼ばれたフェスティヴァルに出演していた時の映像で、初期イーグルスのヒット曲となる「Take It Easy」。グレン・フライとジャクソン・ブラウンの共作で、日本では当時のウエストコーストを象徴する曲として定着したようにも思える。

 後に「ホテル・カリフォルニア」の爆発的なヒットで知らない人はいないだろうというほどのスーパー・スター的なバンドになるイーグルスが、好き者の間で噂になり始めた頃だった。仲間内で話題になったのは彼らやザ・ドゥービー・ブラザーズにリトル・フィートといったバンドの数々。周辺のロック・ファンのほとんどが、そのあたりを指向していて、当時からヘヴィーなロックを好む仲間はいなかった。一方で、売れに売れていたカーペンターズあたりを小馬鹿にして、「センスないねぇ」なんて口にしていたんだが、どこかで「売れているのは商業主義」なんていう発想が残っていたのかもしれない。それにメイン・ストリームではなく、いつも未知の、なにか「新しい」ものを求めていたのはその背景にある。

 そこに前後する形でシンガー&ソングライターが気になり始める。かつて作詞や作曲が分業化されて、職人のような彼らが作った曲をヴォーカリストが歌うというのが一般的なポップスのパターンであり、ある種、音楽産業の「あり方」だった。それ以前から、自作自演のアーティストもいたんだが、内省的な指向性を持つ彼らがクローズアップされて、大きな流れが生まれたのがこの頃。ジェイムス・テイラーやキャロル・キングあたりを皮切りにそういった動きが注目されて、数多くのアーティストにスポットが与えられるようになっていた。なかでも惚れ込むことになったのがジャクソン・ブラウンだった。

ジャクソン・ブラウンが1974年に発表したアルバムのタイトル・トラック「Late For The Sky」。みんな若々しい。バックでギターを弾くデヴィッド・リンドレーも素晴らしいなぁ。

 本当はセルフ・タイトルだったのに、ジャケット・デザインのおかげで「Saturate Before Using」と呼ばれるようになった1972年発表のデビュー・アルバムから翌年の「For Everyman」に続く「Late For The Sky」と1年ごとに届けられるアルバムはどれも傑作で、ライナーをむさぼるように読みながら、そして、訳詞を片手に彼の歌を理解しようとしていた。なによりも、衝撃だったのは、妻の自殺という悲劇を挟んで2年のブランクを経て発表された「The Pretender」。幾度も幾度も聴くことになったこのアルバムも宝物の一枚だ。

 大学に入学した頃に始まった倉敷のレコード屋、グリーンハウスも絶対に忘れてはいけない「メディア」だった。今年春にほぼ半世紀という長い歴史に幕を下ろしたんだが、おそらく、大阪の阪根楽器同様、最もお世話になったのがこのお店。オーナーと奥さんが、めちゃくちゃ音楽好きで、雑誌やメディアでは伝えられてもいなかったような音源をいっぱい教えてくれたり、勧めてくれたり... 互いに情報を交換しながら、音楽談義に花を咲かせて、ただの客と店主を超えた関係が生まれていたものだ。岡山市内にもLPコーナーというレコード屋や神戸に本店のあった大蓄(大阪蓄音機が短くなったらしい)も出店してくるのだが、なによりもお店の持つテイストが自分の波長にあったからだろう。車で30ほどかけて倉敷に向かってレコードを買うのが常となっていた。

 さて、その前か? あるいは、あとか? 自分が好きなアーティストが岡山で演奏する場がないんだったら、やっちまえばいいじゃないかとプロモーターになってしまうのは。次回はそのあたりの話でもしてみようか。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬に更新を目指しておりますが、遅れることもしばしば... ご容赦ください。次回更新日は23年1月半ばとなる予定です。お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

©︎Koichi Hanafusa 当コラムの内容・テキスト・画像等の無断転載・無断使用はお断りいたします。


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