花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第19話 - モノクロからカラーへと色づき始めた70年代半ばって大昔やん | レコードCDの買取はレコードシティ買取センター【安心・簡単・全国対応】

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花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜第19話 - モノクロからカラーへと色づき始めた70年代半ばって大昔やん

花房浩一コラム:音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜

10代から音楽にはまって、約半世紀で買い集めた音盤は数万枚。それを残して死ねるか!? と始めた断捨離に苦悶する、音楽ジャーナリスト・花房浩一の連載コラム、第19話。
モノクロからカラーへと色づき始めた70年代半ば、カルロス・サンタナにスポットライトを当てた一人になっちゃったって?

「こらぁ、起きんかぁ。遅刻すんでぇ!」

 と、高校生の頃は、毎日のように、おふくろにたたき起こされていた。大人びた恰好をして、大口を叩いていても、実は、自分も管理できない生意気なガキに過ぎなかったんだろう。そんなものだから、めでたく大学に入って、「円満家出」の下宿生活を始めた初日、「朝、ひとりで起きれるんかなぁ」と、けっこう不安に思っていた... なんて記憶がある。が、てっぺんにベルの付いた目覚まし時計を枕元に備えたらなんとかなった。そりゃ、そうだろ、やたらでかいベルの音を放つこれで起きないわけがない。そして、しばらくすると、アルバイトで朝早く起きなければいけない... 簡単に言えば、金が絡むと、難なく目覚めることができる学生へと成長していった。

 それまでおふくろ頼みだった炊事洗濯に掃除も、全で自分ですることになる。が、それをどうやったのか? ほとんど覚えてはいない。今の世代から想像もできないだろう、三畳一間の部屋を借りるという間借り生活。洗面所とトイレは同じように住んでいた3人の学生とシェアして、夜になると、「お風呂の時間ですよぉ〜」という大家さんの声を待って、階下のお宅にお邪魔する。で、洗濯はどうしたか? 共同で使える洗濯機があったような気もするが、全く記憶にない。冷蔵庫は、少なくとも、入学した当初は、なかったと察する。そんなので生活できるの? さぁて、今の常識では無理なようにも思える、それが普通の時代だった。

 振り返って思うんだが、あの頃って、今じゃ簡単に想像できないような別世界かもしれない。なにせ、ほぼ半世紀前だ。かつて10年ひと昔なんて言葉が普通に囁かれていたんだが、ほぼ数年で「昔」と思えるほど時代の変化が激しくなっている。すでに、この時代なんぞ、歴史の教科書に出てもおかしくはない大昔。「うそやん、こんなに仲良しのアメリカと日本が戦争したん?」という若者がいるなんて話も耳にする、第二次世界大戦が終わって四半世紀ほどしかたっていない、昭和後期の話なのだ。

 テレビはモノクロが当たり前で、貧乏学生が自室にテレビを持っているのさえ珍しかった。70年代になると一気にカラー・テレビが普及し始めるんだが、実のところ、あの頃、テレビで色つきの映像を見た記憶はほとんどない。電話もなかった。NTTの『債権』を買わないと、自宅に電話を引くことはできない時代。要するに、ある程度金に余裕があるというのが条件で、自宅に電話があるかいないかで社会的な信頼度が全く違ったなんてこともあった。だから、万が一の連絡先は下宿先の大家さん。何かがあったら、そこに電話をもらって... 呼び出してもらうのだ。どうしても電話の必要があったら、公衆電話を使う。ご近所なら10円で3分ほど話せるんだが、長距離となると... やたら金がかかる。というので、10円玉をいっぱい握りしめて、コインを流し込みながら話すのが普通だった。携帯電話? そんなのSFでしか見られない夢物語。子供の頃、スーパー・ジェッターというアニメで、主人公がまるでアップル・ウォッチのようなもので会話をしているシーンを見た記憶があるんだけど、あれが現実になるとはなぁ...

ずっと昔のこと、『スーパージェッター』というテレビ・アニメがあって、未来からやって来た少年が主人公。ここで、確か、腕時計を電話かトランシーバーのように使っていたように記憶している。アップル・ウォッチを先取りしていたのか?

 あ、どうでもいいかもしれないけど、この頃のパチンコに電動式はなくて、手動式。どうやって天釘の左に当てるか... 力の入れ方が微妙に難しかったのを覚えている。勝つことなんてほとんどないのは当たり前で、わずかな小遣いをすってしまって、すっからかんで歩いた奉還町商店街のスピーカーから流れる演歌が、やけに身に沁みたのが忘れられない。今ではけっこうな都会にも映るようになった岡山駅周辺も、あの頃はけっこうな田舎町風情を醸し出していて、それに輪をかけていたのが裏手となる西口界隈。その中心がこの商店街なんだが、すでにこの頃からけっこう寂れた下町を感じさせていた。夜になると人っ子ひとり歩いていないようなうらぶれた感じがさらにひどくなっていくんだが、最近は、ちょいと昭和レトロな雰囲気がいいのか、少しずつ若い人達が集まり始めて活気を取り戻しつつある。

探せばなんでもでてくるYou Tubeですかなぁ。大学当時の主流がこの手動式パチンコで。当時の岡山駅西口の奉還町商店街にはパチンコ屋があったのです。負けたときのわびしさに輪をかけたのが、衰退していく商店街の雰囲気だった。

 それはともかく、ちょいと緊張していた大学生活にも少しは慣れて、余裕ができてくるとバイト探しが始まっていた。当初は少しばかりの仕送りを受け取っていたんだが、当然受け取る金額はかつかつの最低限。なにせ両親は共働きの底辺労働者で、彼らの負担を減らしたいという気持ちもあれば、ガキの頃におふくろに言われた言葉がトラウマのようにのしかかっていた。

「あんた、家出したいんやったら、すっぽんぽんで出て行き!」

 おかげで中学生の頃から、様々なアルバイトに精を出していたのは、以前書き残した通り。大学に入ってもそれは全く変わらなかった。で、できるだけ早く、自立して仕送りなしで生活しなければいけないと数々のバイトに手を出していく。最初は大阪への出張アルバイト。高校時代の先輩から紹介してもらったと思うのだが、百貨店のショールーム等の内装の仕事で、閉店時間から朝まで仕事をするといい金になった。ギャラの良さに加えて、大阪に出れば、心斎橋にある阪根楽器でレコードを買うことができる。なにせ、その頃、岡山には輸入盤を扱うレコード屋はなかったと記憶している。加えて、フォーク喫茶、ディランやフリースペースのモリスフォームに顔を出すこともできる。そのあたりが理由だった。

 すでに、新大阪と岡山をつなぐ山陽新幹線は開業していて、それが福岡と繋がったのは大学に入学した翌年の1975年3月。とはいっても、金がかかるから、たいていは在来線を利用する。姫路まで鈍行で出て、そこから新快速と呼ばれる列車で大阪に向かうのが普通だった。いつだったか、名古屋方面に実家のある、アコースティック・ギター好きの先輩と、在来線でのんびりと大阪に向かったこともあった。金はなくても時間はあるというので、がらがらの車内でギターの練習をするのだが、「うるせえ!他の客のことを考えろ!」と、怒鳴られたり。俺たちは、当然、平謝りだった。その先輩は、大学卒業後も、教師をしながら音楽を続けて、ブルーグラスをやっていると風の噂で聞いている。あの当時のギター・ヒーローは、その世界で知らない人はいないドック・ワトソン。アメリカで出版されていた教則本を買って、時間さえあれば、必死に彼のギター奏法を真似しようとしていたんだろう。

アコースティック・ギターの早弾きといえば、ドック・ワトソン。彼のフィンガー・ピッキングも有名だけど、フラット・ピッキングも素晴らしい。奥にはノーマン・ブレイクとサム・ブッシュも顔を覗かせている。一生懸命コピーしようとしたのがこの「Black Mountain Rag」という曲だった。

 年賀状シーズンになると郵便局のバイトもやったし、岡山駅前に地下街が生まれた時のオープニング・セールで福引きを手伝う仕事もあった。たいていのバイトは大学の張り紙を見たり、演劇部の先輩などを経由してありついたように思う。そのひとりが、普通に入学したのに、夜間に入り直したかどうかして、大学在籍最長記録を作っていたユニークな人物。いつも和服姿でホンダのスーパーカブに乗ってやって来る。いつも大学構内にある演劇部の部室に入ると「いやぁ〜、元気ぃ?」と、声をかけてくれる彼に「友人が大学正門そばに新しい喫茶店を作るんで、バイトしてくれないかなぁ〜」と頼まれたことがある。「もちろんッス」と引き受けて、初代のバイト店員となったのが後の岡山ロック・シーンに欠かすことのできない存在となるペパーランドだった。

(ちなみに、この先輩、あれからずっと後に、「踊る警備員」として、ローカルTVで紹介されたりってなことがあったんだそうな。それも、かなり昔のことで、今どうしているやら...)

 といっても、それはずっと後、ライブハウスへと変身してからのことで、オープン当初は... 自分の記憶をたどると、加川良のアルバム『親愛なるQに捧ぐ』で歌われている「白い家」のような雰囲気ではなかったか。すでに詳細は覚えてはいないし、そんなイメージが記憶に残っているにすぎない。これは憶測なんだけど、ここが目指していたのは、その「白い家」や、まるでCS&Nの真似っこのようなサウンドで脚光を浴びたGARO(ガロ)で大ヒットした「学生街の喫茶店」あたりではなかったか。おりしもニューミュージックなるものが大ヒットして、ユーミンが女子大生を虜にしていた頃。一億中産階級的な発想を持ち始めた学生たちが集うには恰好の場所のように思えていた。

 ところが、バイトを始めると、お店でレコードをかけることができるのが嬉しくてたまらなかった自分と友人は、当時はまりにはまっていた土臭いブルースばかりを流していた。京都を中心にわき起こったブルース・ブームの影響なんだろう。後に懇意となる憂歌団のマネージャーから聞いた話によると、どこかのテレビ局でブルースに関するドキュメンタリーかなにかが放送されて、それが地元のミュージシャンたちを触発。そんな流れができたんだそうな。ウエスト・ロード・ブルース・バンドや、近藤房之助がメンバーだったブレイクダウンに憂歌団あたりが噂になり、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、ウィーピング・ハープ・セノオ(妹尾隆一郎)から、大上留利子のいたスターキング・デリシャスといったブルースからR&Bにベースを置いたバンドの数々が話題になっていった。

なんと1976年に二度目の来日を果たしたスリーピー・ジョン・エスティスのライヴ映像! この時の前座が、「おそうじオバチャン」(なんと放送禁止となったそうな)や「パチンコ」をヒットさせた京都のバンド、憂歌団だった。

「鉛筆をカポタスト代わりに使っている」写真をフィーチャーしたジャケットで話題になったスリーピー・ジョン・エスティスを筆頭に、その頃集め出したのがライトニン・ホプキンスからブラウニー・マギー&サニー・テリーといったアーティストの作品の数々。そんなレコードを喜んで聞いてくれるお客さんもいて、コーヒー一杯で、目を閉じて延々と聴いているなんてこともあったのだが、そんなお客さんは圧倒的少数派で、普通の学生たちには一向に受けなかった。これを経営者が喜ぶはずもなく、あっという間に、「辞めてくれませんか」となった。当然でしょうなぁ。ご迷惑をおかけしました。

 ちょうどこの頃か、あるいは、その前か、卒業する先輩から、わずか5000円で車を譲り受けることになる。それが車検切れまで半年を残したホンダN360。60年代終わりに『ミニミニ大作戦(原題:The Italian Job)』という邦題でヒットした映画で大活躍したミニ・クーパを彷彿させるこの車が生活を一変させるのだ。排気量わずか360ccと、単車のエンジン(だったらしいが、定かではない)で車を走らせたこれが、運転免許を取ったばかり自分には渡りに船。これで教育学部の助教授が請け負っていた市場調査のバイトに乗りだしていく。数をこなせばこなすほどに儲かる完全歩合給で、1件のギャラが破格。というので、市内から周辺部を毎日100km以上走り倒していた。戸別訪問する長髪の学生に「なんやお前は、過激派か?」なんて言葉が投げかけられたりってのは、あの時代にありがちだった反応かも。でも、「いやぁ、貧乏学生のアルバイトで、大学の先生からの依頼なんですよぉ」なんて言いながら、数をこなしていくのだ。

ホンダN360(通称エヌコロ)のモデルとなったのは、間違いなくこの映画で使われたミニ・クーパー。今も熱狂的なファンを持つこれが初めて買った車で、ツインキャブのこれに続いたのがシングル・キャブのN360。そして、その後に日産のチェリーX-1と乗り換えていったんだが、車を持っていたのは学生時代のみってのが不思議。

 車で得たのは移動の自由。しかも、当時軽四自動車に車庫証明は不要で、まだ車持ちの学生は少数派だったというので大学の規制も緩い。おかげで構内が自分の車の駐車場になっていた。で、仲間と「飯、食いに行こうか?」と、車で30分ほども飛ばして、倉敷の商店街にあるとんかつ屋、映画監督がやっていた『かっぱ』に向かったり、まだ生まれて数年のレコード屋、中古も輸入盤も扱う『グリーンハウス』に出かけるってのが日常になっていった。と思えば、深夜に思い立って、「よっしゃぁ、鳥取砂丘に行って、立ちションしよ!」って冗談半分で日本海を目指したり、「鷲羽山のてっぺんで打ち上げ花火やぁ」と、仲間と一緒にアホなことをするようにもなっていた。

 それはともかく、なによりも楽しかったのは、舞台照明のバイトだった。同じように車を乗り回す、ひげ面にパイプが似合った農学部のやたらかっこいい先輩から廻ってきたのがこの仕事だった。始めた頃には、舞台照明の知識なんてあるはずもなく、ただの雑用係だったんだが、徐々に仕事も覚えて、慣れてきた頃にはスポットライトを焚くようにもなっていた。って、まぁ、「焚く」って言葉が今も使われているのかどうか、もう全然わからないけど、岡山市民会館で遠藤賢司のライヴが開かれたときに、確かカーボンを燃やして光を出す、下手にあった旧式スポットライトを担当したこともある。当然、それから20数年後に彼と知り合って、自宅を訪ねるようになるなんて想像もしていなかった。あるいは、運動公園にある岡山武道館にサンタナがやって来たときにもスポットライトを担当。といっても、この時は6人ぐらいで、ライトに色を付けるゼラチンと呼ばれるものを一斉に入れ替えるという演出をやっていたんだが、インカムから届くアメリカからやって来た照明監督の指示をうまく処理できずにめちゃくちゃ怒られたこともあった。

 その舞台照明の師匠だった堀出徹氏が今年の2月に他界している。根っからのロック・フリークで、この仕事を選んだのは「ただでいっぱいライヴを見られるから」だったと聞いたことがある。自分がこのバイトを楽しんだのも、同じような理由だった。が、体験したバンドより記憶に残っているのは彼との音楽談義かもしれない。

「お前は、どっちを評価するんや?『ゆでめん』か、『風街』か。俺は『ゆでめん』やな」

 と、はっぴいえんどのアルバムについて語り合ったのが懐かしい。また、まだ高速道路ができていなかった岡山から米子までの国道を機材を満載したトラックで夜走りして、ロック喫茶かロックバーで飲み明かしたこともある。後にプロモーター稼業を始めた頃も、音楽好きが高じて始めたことを理解してくれていた彼は、破格で仕事を受けてくれた。自分が招聘した最後のライヴ、久保田麻琴と夕焼け楽団の岡山市民ホールのライヴでは、彼とふたりでスポットライトを担当。これが大赤字となり、ほぼ同時期に受けた交通事故による痛手も重なって、この稼業から足を洗うことになるのだが、それ以降も家族ぐるみのつきあいをしていた。

 とはいうものの、岡山を離れ、日本を飛び出した頃から、疎遠になっていった彼と、電話で言葉を交わしたのは、ひょっとすると、1990年かなぁ。

「ひさしぶりやなぁ、あの〜、ローリング・ストーンズのチケット、なんとかならんか?」

 おそらく、自分でも必死になってチケットを取ろうとしたんだろう。が、うまく行かなくて、業界で仕事をしている自分を頼ったのだと思う。でも、幾度か体験していたストーンズに魅力を感じなかったし、レコード会社に頼るのも嫌だったということも重なって、「無理やでぇ」とすげなく断っていた。

  あれが約30年前。それから彼に会うことはなかった。息子たちや別れた奥さんとは時々会って、彼の噂は耳にしていたんだけど。そのひとつが、彼がこの連載を楽しみにしていること。やっと彼のことを書き残すことができた。安らかに眠ってください。今回の原稿を読んでもらえなかったのが実に残念ですが。


レコードシティ限定・花房浩一連載コラム【音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜】は毎月中旬に更新。原稿の遅れが目立ってきましたが、次回更新日は11月中旬を目指します。お楽しみに!

 


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花房浩一・音楽ジャンキー酔狂伝〜断捨離の向こうに〜


花房浩一

花房浩一

(音楽ジャーナリスト、写真家、ウェッブ・プロデューサー等)

1955年生まれ。10代から大阪のフェスティヴァル『春一番』などに関わり、岡山大学在学中にプロモーターとして様々なライヴを企画。卒業後、レコード店勤務を経て80年に渡英し、2年間に及ぶヨーロッパ放浪を体験。82年に帰国後上京し、通信社勤務を経てフリーライターとして独立。
月刊宝島を中心に、朝日ジャーナルから週刊明星まで、多種多様な媒体で執筆。翻訳書としてソニー・マガジンズ社より『音楽は世界を変える』、書き下ろしで新潮社より『ロンドン・ラジカル・ウォーク』を出版し、話題となる。
FM東京やTVKのパーソナリティ、Bay FMでラジオDJやJ WAVE等での選曲、構成作家も経て、日本初のビデオ・ジャーナリストとして海外のフェス、レアな音楽シーンなどをレポート。同時に、レコード会社とジャズやR&Bなどのコンピレーションの数々を企画制作し、海外のユニークなアーティストを日本に紹介する業務に発展。ジャズ・ディフェクターズからザ・トロージャンズなどの作品を次々と発表させている。
一方で、紹介することに飽きたらず、自らの企画でアルバム制作を開始。キャロル・トンプソン、ジャズ・ジャマイカなどジャズとレゲエを指向した作品を次々とリリース。プロデューサーとしてサンドラ・クロスのアルバムを制作し、スマッシュ・ヒットを記録。また、UKジャズ・ミュージシャンによるボブ・マーリーへのトリビュート・アルバムは全世界40カ国以上で発売されている。
96年よりウェッブ・プロデューサーとして、プロモーター、Smashや彼らが始めたFuji Rock Festivalの公式サイトを制作。その主要スタッフとしてファンを中心としたコミュニティ・サイト、fujirockers.orgも立ち上げている。また、ネット時代の音楽・文化メディア、Smashing Magを1997年から約20年にわたり、企画運営。文筆家から写真家にとどまることなく、縦横無尽に活動の幅を広げる自由人である。

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